ギャグ書きさんに無造作に10のお題 3.聞き間違い (遙か)


「ああーもうくーやーしー!」

 望美は今日何度目かの奇声を上げて、教科書を放り投げた。
 譲は今日何度目かのため息をついて、床に転がった教科書を拾いに行った。

 先頃行われた試験で、譲はいつも通りの成績を上げた。つまり、上から数えた方が早いいつもの順位にいた。望美もだいたいいつも通りの成績を上げた。ほぼ真ん中あたりといういつもの順位。
 ただ、望美はいつもと違うところがあった。いつもはたとえギリギリだとしてもなんとか免れていた赤点を、とうとう一つだけ取ってしまったのだった。赤点をとればもれなく追試がついてくる。今日はその対策のために譲を呼んで勉強を見てもらっているのだった。
 譲は学年が下だが、こういうときのために普段から先取り学習に励んでいるので、追試対策くらいはお手の物だ。その譲が作ってくれた問題に、望美は教科書を見ながら取り組んでいたのだが、望美の集中力はどうにもとぎれがちだった。

「先輩、もういいかげんにあきらめてくださいよ」
「だって、だって、この問題さえ! これさえ合ってたら合格だったのにー!!!」

 望美は譲が差し出した教科書を受け取らずに、大声を上げながら机に突っ伏した。その体勢のまま顔だけ上げると、譲に向かって訴える。

「ネルチンスク条約より、ネルチンクス条約の方が言いやすいと思わない?」
「かえって言いにくいと思いますけど」
「私は言いやすいの!」

 望美はまた顔ごと机に突っ伏した。
 望美が赤点を取ってしまったのは世界史だった。
 暗記が苦手というわけではないのだが、そそっかしい性格が災いして、しばしば語句を誤って覚えてしまうのだ。特にカタカナが鬼門だった。それなら世界史をとらなければいいようなものだが、あいにく望美の高校では、世界史、日本史ともに必修となっている。

 塵も積もれば山となる。

 この場合の塵はケアレスミスのこと。ささいな間違いが積み重なって、今回はとうとう赤点と相成った。小さなミスなだけに、自分が悪いのは十二分に承知していても、望美はすっきり納得することができないでいた。望美の愚痴は赤点だとわかったときからずっと尽きることがなかった。

「カタカナの言葉は勘違いしやすいけど、ゆっくり読んで、ゆっくり書けば大丈夫ですよ」
 そんな望美に譲は辛抱強くつきあっていた。
 望美が放り出した教科書を開き、問題に関係のある箇所を指で示す。
 穏やかな微笑みに促されて、望美はなんとかシャープペンを握りなおした。
 ようやく埋まり始めた解答欄に、譲はほっと息をついた。そうしてしばらくは望美のペンの動きを見守っていたのだが、何問めかのところで不意にストップをかけた。
「違いますよ、先輩。ここは……」
「あ、そうか」
 望美は慌てて消しゴムをかけ、教科書を見直して正しい答えを書き込んだ。
 その間違いもまた、カタカナ語句の間違いだったので、少しばかり呆れてしまった譲はつい口を滑らせた。

「そういえば先輩、いつだったか、ヘロドトスのこともヘロトドスって覚えていましたよね。間違いやすいんだから、もう少し注意しながら覚えた方がいいですよ」

 言ったそばから、しまった、と思ったのだが、言ってしまったものは取り消せない。
 案の定、望美の頬が盛大に膨らんだ。そうして、きっと譲をにらみつけると、一気に頬にためた空気をはき出した。

「譲くんだって、ダックスフントのことラックスフントって言ってたくせにー。シンクロのこと、新しいクロールだと思ってたくせにー。しまうまのしまをぐるぐるとったら白い馬になるって信じてたくせにー」

 望美の機嫌を損ねた以上、反撃があるのはわかっていたし、正直なところその手段にも予想がついていたのだが、実際に持ち出されてみるとやはりダメージは大きかった。忘れたかったし忘れて欲しかった、幼い頃のあれやこれやを持ち出され、譲の顔に朱がのぼった。
 年上の幼なじみというのはこういうとき厄介だ。どうしたって、子供の頃の一年の差は大きい。その差を今さら思い知らせるような真似をしなくてもいいではないか。それに、ラックスフントはともかく、新型クロールやしまのないしまうまを譲に吹き込んだのは将臣で、あの頃の将臣の教えは望美にだって及んでいたのだから、この件に関してはお互い様のはず。
  「くせにー」なんて言われるのは心外だ。

「そんなこと言ったら先輩だって」
「ストップ!」

 のぼせた頭でやりかえそうとしたのに、望美のストップで譲は口をつぐんでしまった。
 神子の命には逆らえない。八葉としての習性はまだ抜けていないようだ。
 ――八葉でなくても、譲が望美に逆らえるはずはないのだが、ともかく譲の言葉が止まったので、望美は安心したようだった。シャープペンを顔の前に立てて、軽く横に振ると、ダメだよと言った。

「それ以上言っちゃダメ。そういう思い違いとかの話になったら、私が譲くんに勝てるはずないんだから、譲くんは言っちゃダメ」

 理不尽だ。
 当然譲はそう思ったのだが、結局やりかえすのはあきらめた。こういうときの女の子に理屈を持ち出してはいけない。それは徒労に終わるか、事態を悪化させるかで、何にしろろくな事にはならない。これまでのつきあいで、譲はそれを学んでいた。

「ごめんね」
 譲が黙り込んだのを不機嫌ととったのか、望美がそう言いながら譲の顔をのぞき込んできたので、譲は微笑を返した。たとえ本気で怒ったのだとしても、望美の前でそれを持続させるのは、譲には不可能なことだった。
 まして、そんな顔をされては。

「いえ、いいんですよ。事実ですしね」
「ラックスフント?」
「そう言ってましたね」
「私も、言ってたね。まねっこして」
「そうでしたね」
 そうして二人で顔を見合わせて笑う。それで仲直りは完了だった。

「よーし、それじゃあもうちょっと頑張るぞー」
 望美が気合をいれて拳を突き上げたので、譲は教科書を手にして望美に問いかけた。
「17世紀末、ロシア帝国と清との間で結ばれた両国の境界線などについて定めた条約を何というか」
「ネルチンクス条約!」
「……先輩」
「あ」

 再追試だけは避けましょうね、という譲の言葉に、望美は三度机に突っ伏した。

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