雨の日で10題...2   08. いつもと違うシチュエーション (ヒカ碁)

 手提げの鞄に手を入れて、あかりはふっと眉をひそめた。
 いつもそこに入れている折りたたみ傘がなかったのだ。
 少しの間考え込んで、気づく。この前の雨で使った後、乾かしてたたんだまではよかったが、この鞄に放り込むのを忘れていたことを。

 昇降口から外を見れば、雨はそれほど強くなかった。このまま帰っても、それほどひどいことにはならずに済むだろう。実際、傘をささずに飛び出していく者も多かった。今朝の天気予報の降水確率は40%。梅雨時とはいえこれくらいならと、みんな油断したのだろう。あかりのようについうっかりという人もいるかもしれない。

 仕方がない濡れていこうと腹をくくったところで、あかりの視界がかげった。あかりがそれを不審に思うより早く、聞き慣れた声がした。
「なんだよ、傘持ってないのか?」
 怪訝そうにあかりに傘を差し掛けていたのはヒカルだった。ヒカルは折りたたみではなく、普通の傘を持っていた。普段は面倒がって折りたたみを持ち歩くことすらないヒカルにしては用意がいいとあかりは思い、それをそのまま口にすると、ヒカルは少し嫌そうな顔をした。
「持って行けってうるさいからさ」
「おばさんが?」
 あかりはごく真っ当にヒカルの母親のことを思い浮かべたのだが、ヒカルはそれには答えず、ただ肩をすくめた。
 そうしてヒカルは一歩足を進めると、あかりを振り返った。

「ほら、帰るぞ」

 苛立たしげに口をとがらせたヒカルの表情に、あかりの反応が遅れた。
 傘に入れてくれるのだと思い当たったところで、あかりは驚いた。あかりの傘にヒカルを入れてあげたことなら何度もあった。けれどその逆があったかどうか、とっさに思い浮かばなかった。
「あかり?」
 傘をしゃくるようにしてヒカルがあかりを呼んだ。ぐずぐずしていたらヒカルの機嫌を損ねることは明白で、あかりは慌ててヒカルの横に並んだ。
 ヒカルは同年代の男の子の中ではまだ小柄だ。二人で入っても、傘の中はそれほど窮屈ではなかった。

 傘、私が持とうか?

 その方が楽じゃないかとあかりは言いかけて、けれど結局やめた。ヒカルが嫌がりそうな気がしたし、あかりもちょっともったいないと思ったのだ。
 せっかくヒカルの傘に入れてもらったのだから、傘もヒカルに持ってもらおう。せっかくいつもとは逆なんだから。
 その方が、特別って感じがするんじゃないだろうか。

 

 水たまりを避けながら歩いていく一つの傘。その明るい色を見下ろして、佐為は後ろから静かについて行った。そうしてひっそりと笑みをこぼす。
 女の傘に入れるかと憤然と言いきったのはついこの間のことだが、自分の傘に女の子をいれるにはやぶさかではないらしい。

 ヒカルも意外と紳士ですね。

 しかしそれは口には出さない。ヒカルがへそを曲げたら大変だ。ヒカルがすねるだけならいいけれど、あかりが濡れるようなことになったら申し訳ない。
 だから佐為は静かに何も言わずについて行った。
 二人の入った一つの傘に。

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