雨の日で10題...2  04. 空の涙 (サヴァイヴ)

 雨が降ると周囲の密度が濃くなるようだった。
 ただでさえ湿度の高いこの島の空気は一気に重さを増す。髪の一本一本にまでまとわりついてくるようなその感覚には、もう慣れた。湿気を吸いまとまりすぎてしまった長く豊かな髪を手ぐしでほぐしていると、どこからか立ち上ってくる匂いに気づく。雨にぬれた土と草の匂いだ。土にも匂いがあるなんて、コロニーに居た頃は知らなかった。濃密に自分を取り巻いていくなじみの薄い気配は、それでも、嫌いではなかった。

 大いなる木は豊かに茂り、みんなのいえを覆っている。その心強い屋根に雨があたって音がする。大いなる木の葉は大きく厚い。雨の一粒一粒がわかるくらい高くはっきりと響く音が、まるで音楽のようにメノリの耳に届く。

 ロカA2では雨が降らない。空や雲は天井に映し出され、太陽や月の動きまで再現されているが、雨だけは別だった。
 何もかもが密集しているコロニー内を水浸しにしたりすれば、あちこちの設備が不具合を起こすことは間違いないし、不具合が起きないようなものでも水に濡れれば劣化が進む。瑣末なことまであげるとすれば、傘を持ち歩くのが面倒だ。
 そんなどこからも歓迎されない雨の為に、大量の水を確保する資金や設備や労力がわざわざ用意されるはずもなく、一般的にコロニー育ちは晴天を知っていても雨天は知らないのだ。

 ベッドに腰をかけ、ロカA2にはなかった雨を眺める。
 雨に濡れた緑はその色がより深く沈む。雨の日は全ての輪郭が曖昧になる。そんな朧な景色を、雨天を知らないはずのコロニー育ちのメノリは、けれどよく知っていた。

 メノリがロカA2で暮らすようになったのは、ソリア学園に通うようになってからだ。その前はヴィスコンティ所有の土地で暮らしていた。そこも無論、コロニーなのだが、ロカA2のように大勢の人と施設を収容する生活の利便性や効率を最優先とするようなコロニーとは、そもそも設計に際しての目的や方針が全く違う。より簡便な生活を、ではなく、より地上に近い暮らしを。だから、ロカA2では無駄とされる雨も、そこでは絶対に必要なものだった。地球なら、雨は降るからだ。
 幼い頃、雨が降ると滅多に外には出してもらえなかった。雨はメノリにとって、基本的に部屋の中から眺めるものだった。今窓から見える風景は、あの頃屋敷の窓から眺めたものとよく似ていた。
 よく似ている、と考えて、メノリはふと苦笑をこぼした。今見ているものが、昔見たものと似ているんじゃない。逆だ。昔見たものが今見ているものに似ているのだ。今見ているものの方が本物なのだから。
 そうと気づいても、やはり印象深いのは思い出の中の雨だった。昔見た景色に似ている、と感じてしまうし、似ていると思えば、雨と共に記憶も蘇る。

『雨はね、お空の涙なのよ』

 ロカA2に移る前、ヴィスコンティの屋敷での記憶は、いつも優しい笑顔が傍らにある。滅多に手繰ることのない記憶をたまに掘り起こせば、いつも母の姿が蘇る。雨を眺めるのも、いつも母と一緒だった。
 初めて雨を見たときのことだったろうか。どうして水が空から降ってくるのかと、幼いメノリが尋ねたとき、母がそう教えてくれたのを覚えている。

『おそらはかなしいの?』

 見慣れない大量の水にただでさえ驚いていたメノリは、涙だと聞いてさらに驚いた。こんなにたくさん涙をこぼすほど、悲しいことがあったのかと心配になったのだ。
 今となっては、本当に自分がそんなこと言ったのかと、信じられない思いだが、記憶の中でそれは確かにメノリのセリフだったし、母はそれにも答えてくれた。

『悲しいのかもしれないし、嬉しいのかもしれないわね』
『うれしいの?』
 嬉し涙など、言葉としても実感としても知らなかった頃のこと。メノリが目を丸くすると、母は微笑んでうなずいた。

『嬉しくても涙が出ることもあるのよ』

 それにもしかしたらと、母はやたらと大きな窓から空を見上げて続けた。

『泣きたいけど泣けない人たちの代わりに、泣いているのかもしれないわ』

 それは嬉し涙などよりよほど理解しにくい言葉だった。幼いメノリにとって涙とは、泣きたいと思う間もなく勝手にこぼれるものだった。泣きたいと自分でわかるころには既に泣いている。泣きたいのに泣けないということがあるだろうか。
 明快な論理にはできなくとも、メノリがそういう気分でいることは、きっと伝わっていたのだろう。母は優しい笑顔のままメノリの髪をなでてくれた。

『メノリも、もう少し大きくなったらわかるのかもしれないわね』

 窓越しに雨を背負って微笑む母の姿は、雨にけぶっていた。雨は母の後ろにあるのに、なぜかそう見えたのだった。

 雨は強くも弱くもならず、今朝からずっと降り続いている。メノリはベッドに腰掛けたまま、雨の滴を追い続けた。
 途切れることなく流れ続ける水の軌跡が幾重にも重なり合う様は、それが涙だと思うとひどくもの悲しいものに見えた。泣くに泣けない人の代わりに、身を投げ出すようにして空が泣いている。
 あのときの雨は母の涙でもあったのだろうか。あれは本物の空から落ちた滴ではなかったけれど、雨が泣けない人の代わりに空がこぼした涙だというのなら、母の涙もそこに混ざっていたのだろうか。

 母が不幸だったとは思わない。記憶の中で母はいつも穏やかな笑みを浮かべていたし、何をするときも楽しそうな人だった。いっそ子供の自分より無邪気だったかもしれない。
 けれど、子供の自分に見せた姿が、母の全てではなかっただろうと、それがわかる年齢に、メノリも今はなっていた。ヴィスコンティの家に嫁ぎ、父との仲もよかったが、気苦労がなかったはずはない。ヴィスコンティの家格も、連邦議員という父の立場も、けして軽いものではない。雨は空の涙だと言ったあのとき、母は自分の涙をそこに見ていたのだろうか。

 軽い足音が聞こえたので、メノリは視線を雨から外した。見ると、ルナが部屋に入ってきたところだった。さっきまでリビングにいたと思ったが、何か用事だろうか。
「何してるの?」
 どうしたのだろうと思ったのは、ルナの方も同じだったようで、歩きながら問いかけてきた。何をするでもなく、ベッドの上に座っているメノリが不思議だったのだろう。ルナがメノリと同じように自分のベッドに腰をかけたところで、メノリはルナの問いに答えた。
「雨を見ていた」
「雨を?」
「ああ。昔見た雨と同じだと、少し懐かしくなった」
「コロニーで、雨が降ったの?」
 ルナは目を丸くして、けれどすぐに諒解したようだ。メノリはずっとロカA2にいたわけじゃないのねとルナが言うので、メノリはうなずいた。
「地球の環境になるべく近づけようとしていたらしい。雨の降り方も、こうして見るとよく似せていたのだなとわかる」
「そうなんだ。私もあちこち移動したけど、そういうコロニーには行ったことがないのよね。一度行ってみたいと思ってるんだけど」
 ルナがあちこち移動したというその訳に思い当たって、メノリは一瞬言葉を探した。けれど、続けて「惑星開発技師を目指すものとしては、やっぱりいろいろ見ておきたいじゃない?」と言ったルナが、いかにも屈託なく笑うので、メノリも微笑んだ。
 そしてその笑顔につられるように、メノリは先ほどからの物思いの一端を口にした。

「雨は、空の涙だという話を知っているか?」
「空の涙?」
「ああ、泣きたくても泣けない人の代わりに、空が泣いているのだそうだ」

 唐突な話題にとまどったのだろう。ルナは何度か瞬いた。そして視線を外に、降り続く雨へと向けた。メノリもそれに続く。しばらく二人で雨音に耳を傾ける。
 やがてルナが静かに口を開いた。
「そっか。だから雨上がりの空はきれいなのね」
「だから?」
 ささやくようにそっとつむがれた言葉を、メノリは聞きとがめた。「雨は空の涙だ。だから、雨上がりの空はきれいだ」という、ルナの論旨が飲み込めなかったのだ。
 するとルナは顔をメノリの方へ戻して、にっこりと笑った。そうしてメノリの疑問に、堂々と胸を張って答えた。

「だって、これだけ思いっきり泣いたら、すっきりするじゃない」

 今度はメノリが瞬いた。そうしてルナの論理を検討しているうちに、自然とその顔がほころんだ。確かにそうかもしれないと思ったのだ。

「ルナー? メノリー? どうしたの? ご飯よ」
 ちょうど会話が途切れたところで、リビングの方からシャアラの声がした。その声が終わらないうちに、ルナが飛び上がって舌を出した。
「いっけない。私、メノリを呼びに来たんだった」
 もうそんな時間なのかと、ベッドから降りながらメノリは改めて外を見た。雨のせいで薄暗いので、今がいつごろなのか判断がつかない。朝からずっと降っているのに、まだやむ気配がない。

 なるほど、確かにこれだけ泣けばすっきりするに違いない。今日のうちか明日になるかわからないが、雨が上がった後はすっきりと晴れ渡るのだろう。そして星と月か、または太陽が、その冴えた空を彩るのだろう。

 もしかしたら。
 もしかしたら、母もそうだったのかもしれない。雨を見て思うのは、流れる涙のほうではなく、涙が上がった後の澄み切った空の方だったのかもしれない。
 大きくなればわかると言われたのも、このことだったのだろうか。

「さ、行きましょう。メノリ。これ以上待たせたら申し訳ないもの」
「そうだな」
 立ち上がって歩き出したルナに、メノリも続いた。食事の時間が遅くなれば、主にハワード辺りが、いや、正しくはハワード一人が盛大に文句を言うに違いない。それはあまり愉快な状況ではない。今日は仕事が休みだったので、お腹が空いたとはあまり思わないが、急ぐに越したことはなさそうだった。

 雨は降り続いていた。
 けれど、そのうちやむだろう。そしてその後は、澄んだ空が見られるに違いない。

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