雨の日で10題...2  02. 触れ合った肩 (コルダ)

 雨が降り出したのは突然だった。
 ばたばたと駆け足で雨宿りに向かう人たちを横目に、香穂子は余裕で歩いていた。香穂子はちゃんと傘を持っていたからだ。
 とはいえ香穂子が特に雨に敏感だというわけではない。単に、雨が降り出したのは香穂子が家を出ようとしたちょうどそのときだったというだけだ。玄関のドアを出たところで雨に気づいた香穂子は家の中に引き返して傘を持ってきた。要するに運がよかったのだ。

 唐突に降り出した雨は、しかしなかなかやみそうになかった。激しくはないがその分しとしとと、しつこそうな気配がする。
 それでも傘を持っているので香穂子は困らない。お目当ての楽譜を買うために心当たりの店に向かう足取りは充分軽い。
 運の良かった香穂子とは違って、急な雨に困っている人は多かった。目的の店の前にも一人、恨めしげに空を見上げる人影がある。その人影の顔がわかるくらいに近づいたところで、香穂子は駆け足になった。それが知っている人だったからだ。

「月森くん!」

 駆け寄りながら名前を呼ぶと、彼は視線を空から香穂子に向けた。

「日野」

「月森くん、傘持ってないの?」
 尋ねてから香穂子は少し後悔した。見ればわかる質問をわざわざ投げかけたりして、月森の機嫌を損ねるのではないかと思ったのだ。
 月森は怒らなかった。ただ困ったように肩を落としてため息をついた。
「雨が降るとは思わなかった」
 月森が気を悪くしなかったので、香穂子はほっとしながら笑いかけた。
「そうだよね。朝は晴れてたもん」
「君は用意がいいな」
 月森が香穂子の傘に目を留めて言ったので、香穂子は首を振った。
「私が出かけるときにはもう降ってたの。だからたまたま」
「そうか」
 短く答えると月森はまた視線を空に向けた。つられて香穂子も見上げると、厚く黒い雲が視界に入った。青空は遠そうだ。

「しばらくやみそうにないな」

 月森はあきらめたように息をつくと、そのまま雨の中に足を踏み出そうとした。
「待って!」
 俺はこれでと言いかけた月森を遮って香穂子は彼を引き留めた。
「そのままじゃずぶぬれになっちゃうでしょ? 送っていくから私の傘に入っていって」
「しかし、君はこれからどこかに行くんだろう?」
 香穂子の申し出はずいぶんと思いがけないものだったようだ。戸惑い眉を寄せる月森に、香穂子は笑ってうなずいた。

「うん。ここにね。楽譜を買ってくるからちょっとだけ待っててくれる?」

 それでも遠回りになるからと月森は辞退しようとしたのだが、香穂子も譲らなかった。知り合いがずぶぬれになるのを見過ごすなんて、寝覚めが悪い。押し問答の末、近くのバス停までということで折り合いが付き、香穂子の買い物が終わるまで待つことを月森は了承した。

「じゃあ、行こうか」
 買い物を済ませて店を出ると月森がちゃんと自分を待っていたことに顔をほころばせて、香穂子は傘を開いた。そのまま月森にも入るように目でうながすと、月森はしばらくためらった後で足ではなく手を動かした。
 差し出された手の意図がわからず香穂子は首を傾げると、月森は気まずそうに顔をしかめながら言った。
「俺が傘を持とう。もし、よければ、だが。その方がいいだろう?」
 月森と香穂子ではかなり身長差がある。言われてみればその通りだと、香穂子は喜んでその提案にのった。
 そうして二人並んで足を進めること数分、香穂子は月森を見上げて言った。

「月森くん、肩が濡れてるからもう少しこっちに寄った方がいいんじゃない?」

 送っていくことは承知してくれたものの、月森の遠慮がなくなったわけではないらしい。月森は明らかに香穂子の方により深く傘をさしかけるように持っているので、月森の体は半分近く傘からはみ出し、片方の肩がじっとりと濡れていた。
「あ、ああ」
 月森は自分の肩をちらりと見やってうなずき、傘の傾きと自分の体の位置を調整した。と、その拍子に香穂子と軽くぶつかり、月森は慌てて距離を取り直した。
「すまない」
 月森がひどく申し訳なさそうな様子で頭を下げるので、かえって香穂子の方が申し訳なかった。一つの傘を二人で使っているのだから、ぶつかるのは当たり前だ。そんなに気にしなくてもいいのにと思う。少なくとも香穂子は気にしていない。
「月森くん、やっぱり傘は私が持つよ」
 香穂子は月森の返事を聞かずに傘を月森の手から傘を取り返した。そして腕をいっぱいに伸ばして傘をさす。月森と自分とちょうど半分ずつになるように。その体勢を保つにはそれなりの努力が必要で、自然、二人の距離は近くなりまた肩がぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
 謝りながら、けれど香穂子は、月森がさっきと同じように空けようとした距離の分、さらに月森の方へ寄ってそれを埋めた。

「せっかく傘を持ってるんだから、濡れないように行こうよ。ね?」

 見上げると月森は驚いたように目を丸くしていた。そうして何度かまばたきをした後で、何故だかあきらめたようにうなずいた。その後は肩がぶつかっても月森が不自然に離れることはなかったので、二人ともあまり濡れずに済んだけれど、月森がむっつりと黙り込んでしまったので、香穂子も身の置き場がなかった。

 もしかしなくてもこれはやはり、大きなお世話というものだったのだろうか。

 余計なことをしてしまったのかなと、香穂子の気分は重かった。
 バス停には屋根がなかったので、二人はバスが来るまで一緒にいた。そこでも会話がなかったので、香穂子はますます居たたまれない思いだった。
 ようやくバスが到着したとき、香穂子はこれでこの雰囲気から解放されるとほっとしてしまった。けれど、そもそもこの状況は自分が招いたのだということくらいはわかっていた。自分が余計なお節介を焼かなければ、月森にも気まずい思いをさせずに済んだのだ。
 だからバスに月森が乗り込んだとき、香穂子は謝ろうとその背中に向かって口を開いた。しかし香穂子がごめんなさいを言う前に月森が振り返った。
「日野」
 バスのステップの分だけさらに高くなった月森の顔を傘ごしに見上げると、月森は顔だけ振り返ったその姿勢のまま数瞬口ごもった後で、ゆっくり口を開いた。

「今日は助かった。ありがとう」

 バスの扉が閉まって、バスが発車した。そうしてバスが行ってしまっても、香穂子はしばらくバス停で立ちつくしていた。
 最後に見た月森の表情が、それまでのものとは全く違うものだったので、それが染み通っていくのに時間がかかったのだ。
 我に返ったときには雨が止んでいた。ところどころ雲が切れた青空が顔を出していた。
 今日何時間ぶりかで見た青空のまぶしさに、要らなくなった傘をたたみながら香穂子は思った。
 さっきの月森くんの顔みたいだと。
 ひょっとして、お節介じゃなかったのかなと、自分も家へと向かいながら香穂子の胸は軽くなっていた。

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