君でさえいてくれれば
男は無力さに打ちひしがれていた。 自分が万能だなんて思ったことがない。有能だとさえ思わなかった。たとえ口ではどれだけ調子のよいことを言っていたとしても、自分自身にとってさえ、自分はちっぽけな存在でしかなかった。どこまで空を飛んでも母には会えないのだと知ったあのときに、この世界にはかなわない願いがあることも思い知らされた。ちっぽけな自分にできることはほんの少ししかないのだと、そんなことは誰に言われなくてもよくわかっていた。 彼女と二人なら。 けれど結局彼にできることは何もなかった。かつて泣きじゃくって明かしたあの夜よりもなお、自分の無力さに打ちのめされてみじめだった。血を吐くようにして求めても、全てを投げ出すようにして手を伸ばしても、届かない。それを手に入れてやれない。それなら、この体に命に、いったい何の意味があるというのだろう。 暗い部屋で一人、椅子にただ座る。昔のように泣かないのは、辛くないからではない。もう涙も出ないのだ。 彼女は強い人だった。その強さは病がどれほどのものを彼女から奪おうとも変わりはしなかった。彼女が彼との子を宿した時、喜ぶのをためらったのは彼だけだった。彼女は喜び、幸せだと笑い、そして迷うことなく新たないのちを生み出すことを決断し、それをやり遂げた。 抱き寄せると彼女の体はすんなりと彼の腕に収まった。たとえ彼女に抗うつもりがあったとしても、彼はなんなくそれを押さえ込めるに違いない。あまりにも思い通りになりすぎる妻の体に彼は奥歯をかみしめた。 「何を泣いていたんだ?」 そよ風が花を揺らすときにたてる音。それほど微かで頼りない問いが、それでも彼の耳にはちゃんと届いた。 「泣いてなんかいないさ」 ぎこちないのを承知で笑顔をつくり、彼女の言葉を否定する。どうしてそんなことをと、努めて軽い調子で付け加えた。けれど彼の努力をどう見たのか、彼女は表情を変えることなく、口調だけは昔のまま落ち着いて続けた。 「泣いていただろう?」 彼女の手が自分のほほを滑るのを彼は肌が冷えることで知った。その感触を追いかけるようにして涙がこぼれた。もう泣けるほどの涙は残っていないと思ったのに、後から後からあふれて止まらない。 彼女が生きた証、彼女が大人になれた証をこの世に生み出すために、彼女は持てる力を全て使ってしまったのだ。ほほに添えられた指は冷たかった。初めて手をとってくれたあの日よりもずっと。彼はそれがひどく辛く悲しかった。 「すまない。俺は結局何も」 嗚咽混じりに彼はただ謝った。結局そんなことしかできない。供に生きようと言った自分に彼女は応えてくれたのに、その彼女に自分はいったい何をしてやれたのだろう。彼女のために強くなりたいと思ったのに、結局自分は臆病で、役立たずのままだ。首から下も、上も、何にもならない。 「だが私を救ってくれたのはお前だ」 彼女は彼のほほに添えた手にほんの少し力を込めた。微かなそれに気づいた彼は涙にぬれた目を見開いて彼女を見る。 「ありがとう、アルノー」 彼はまた涙を抑えることができなかった。妻からの感謝の言葉はまた、別れの言葉でもあるのだとその声音に彼女の透き通るような美しさに否応なく思い知らされる。 |