君でさえいてくれれば

 男は無力さに打ちひしがれていた。

 自分が万能だなんて思ったことがない。有能だとさえ思わなかった。たとえ口ではどれだけ調子のよいことを言っていたとしても、自分自身にとってさえ、自分はちっぽけな存在でしかなかった。どこまで空を飛んでも母には会えないのだと知ったあのときに、この世界にはかなわない願いがあることも思い知らされた。ちっぽけな自分にできることはほんの少ししかないのだと、そんなことは誰に言われなくてもよくわかっていた。
 しかし、無力を承知であきらめられないことができた。かなわない願いがこの世にあることを承知で、それでもどうしてもかなえたい願いを持ってしまった。自分の何と引き換えにしてもそれが欲しかった。無力でも届くかもしれないと思った。

 彼女と二人なら。

 けれど結局彼にできることは何もなかった。かつて泣きじゃくって明かしたあの夜よりもなお、自分の無力さに打ちのめされてみじめだった。血を吐くようにして求めても、全てを投げ出すようにして手を伸ばしても、届かない。それを手に入れてやれない。それなら、この体に命に、いったい何の意味があるというのだろう。

 暗い部屋で一人、椅子にただ座る。昔のように泣かないのは、辛くないからではない。もう涙も出ないのだ。
 ふと耳に届いた衣擦れの音に振り返り、彼は目を見開いた。戸口に彼の妻が立っている。暗い部屋にその姿が白く浮かび上がっている。開いた扉に寄りかかる体は糸のようだった。その頼りない姿に彼の血が凍る。
「ラ……!!」
 その名を呼ぶ時間ももどかしく、彼は妻の元へ駆け寄った。
 どうやってここまで、と思った。歩く力などもうないはずだ。

 彼女は強い人だった。その強さは病がどれほどのものを彼女から奪おうとも変わりはしなかった。彼女が彼との子を宿した時、喜ぶのをためらったのは彼だけだった。彼女は喜び、幸せだと笑い、そして迷うことなく新たないのちを生み出すことを決断し、それをやり遂げた。
 彼女は強い。出会ったときからずっとそれは変わらない。
 けれど彼女の決意は確実に彼女のいのちを削った。新たないのちに持てる力の全てをそそぎこんでしまったのかもしれない。子どもを抱くほほ笑みの美しさとはうらはらに、彼女に残された時間はあまりにも乏しいものだった。一人で歩くというそれだけのことが、今の彼女にはひどく困難なこととなってしまった。
 彼女は今も変わらず強く美しいのに、彼女のいのちだけが消えていこうとしている。

 抱き寄せると彼女の体はすんなりと彼の腕に収まった。たとえ彼女に抗うつもりがあったとしても、彼はなんなくそれを押さえ込めるに違いない。あまりにも思い通りになりすぎる妻の体に彼は奥歯をかみしめた。
 抱き上げても手ごたえがない。まるで羽根のようだ。
 風が吹けば空へ舞い上がっていくのではないだろうか。
 浮かんだ考えに戦慄する。彼は身震いをこらえて彼女を抱く腕に力をこめた。
 こわばった体では声すらまともに出てこない。どうしてここにと尋ねるだけのことに彼が手こずっていると、腕の中の妻が先に口を開いた。

「何を泣いていたんだ?」

 そよ風が花を揺らすときにたてる音。それほど微かで頼りない問いが、それでも彼の耳にはちゃんと届いた。
 彼は言葉に詰まり目を見開いた。自分は泣いてなどいない。そう思う彼はしかしひどく狼狽していた。妻の声が細いことにか、それとも問いの内容が思いがけなかったからか。自分の狼狽の理由もはっきりさせられないまま、彼はのどの奥に力をこめて、どうにか言葉をしぼりだす。

「泣いてなんかいないさ」

 ぎこちないのを承知で笑顔をつくり、彼女の言葉を否定する。どうしてそんなことをと、努めて軽い調子で付け加えた。けれど彼の努力をどう見たのか、彼女は表情を変えることなく、口調だけは昔のまま落ち着いて続けた。

「泣いていただろう?」

 彼女の手が自分のほほを滑るのを彼は肌が冷えることで知った。その感触を追いかけるようにして涙がこぼれた。もう泣けるほどの涙は残っていないと思ったのに、後から後からあふれて止まらない。
 自分の涙が彼女の上にこぼれそうになったのを、彼は慌ててぬぐった。
 涙のしずく一つですら彼女を流しさってしまうのではないかと彼はそれが怖かった。

 彼女が生きた証、彼女が大人になれた証をこの世に生み出すために、彼女は持てる力を全て使ってしまったのだ。ほほに添えられた指は冷たかった。初めて手をとってくれたあの日よりもずっと。彼はそれがひどく辛く悲しかった。
 しんしんと冷えているその指先から自分のいのちが彼女の中に流れていけばいいのに。そのためになら自分のいのちを全て搾り取っても惜しくはないのに。
 けれど現実にはぬくもり一つですら、彼女に与えてやることができない。こうして力の限り抱きしめても、彼女の体が温まることはない。

「すまない。俺は結局何も」

 嗚咽混じりに彼はただ謝った。結局そんなことしかできない。供に生きようと言った自分に彼女は応えてくれたのに、その彼女に自分はいったい何をしてやれたのだろう。彼女のために強くなりたいと思ったのに、結局自分は臆病で、役立たずのままだ。首から下も、上も、何にもならない。
 子供のようにしゃくりあげている夫のほほから、妻は手をどけようとはしかなかった。そのままで、しかし、彼女は「そんなことはない」とは言ってくれなかった。臆病などではないと否定してはくれなかった。その代わり彼女は微笑んで「だが」と言った。

「だが私を救ってくれたのはお前だ」

 彼女は彼のほほに添えた手にほんの少し力を込めた。微かなそれに気づいた彼は涙にぬれた目を見開いて彼女を見る。
「お前が、お前であったから、私はここまでこれた。幸せの意味も知ることができた」
 ぬぐい損ねた涙が彼女のほほにかかった。けれどそれを受けた彼女は変わらずそこにあった。今は、まだ、そこで彼を見て微笑んでいた。

「ありがとう、アルノー」

 彼はまた涙を抑えることができなかった。妻からの感謝の言葉はまた、別れの言葉でもあるのだとその声音に彼女の透き通るような美しさに否応なく思い知らされる。
 軽い体を抱きながら彼は泣き続けた。彼女も止めようとはしなかった。
 髪に彼女の指を感じながら、彼は思った。
 涙が止まったときには少しだけ強くなれているだろう。彼女からもらった微笑みの分だけ。

終わり

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