優しい世界 おまけ

 そろそろ寝ようかと大きなあくびをしたアルノーは、ふと小さな物音を聞いて首をひねった。
 細くカーテンの開いていた窓に近づき暗い外をうかがうと、森の奥へと入っていく小さな人影が見えた。
「あー」
 アルノーは低くうなると苦い表情で額に手をあてた。その脳裏に昼間のジュードの姿が浮かぶ。
 崩れ落ちる洞窟から脱出しようと走り出したときに、突然泣き出したジュード。どうしたのかと尋ねても答えはなく、やがてジュードは自分で泣きやんで歩き出した。その後ハリムへ戻る飛行機の中でも、ハリムに戻ってからも、ジュードの目に涙が浮かぶことはなく、むしろ明るい顔で出迎えた人たちに応えていた。
 もともと感情豊かなジュードのことだ。今泣いたカラスがなんとやらというようなその様子は、それほどおかしいものではないのかもしれない。それにジュードは強い子だ。何か思うところがあるのだとしても、一人で泣きやんだようにそのうち自分でなんとかしてしまうだろう。
 けれどアルノーは迷った。今夜ジュードを一人にすべきかどうかということを。
 今夜はハリムの人たちの好意もあり、それぞれ個室をあてがわれたのだが、それをそのまま受け取るべきかどうか、アルノーは一瞬迷ったのだ。一人で考えさせてやるべきなのか、何をしてやれるわけでもないがみんなで側にいてやるべきなのか。
 ただ、ジュードならばともかく自分が四人同じ部屋でなどと言い出したりすれば、ラクウェルが顔をしかめるかもしれないし、ジュードに至っては「一人で寂しいなんてアルノーはおこちゃまだね」などと言いかねない。心配している相手にそんなことを言われたりすれば、さすがにいい気分ではないだろう。
 そんな余計な気がかりと、どうする方が正しいのかという迷いからアルノーは結局口を開くタイミングを逃し、皆それぞれ別の部屋で休むことになったのだが。
 あの赤くぶかぶかなジャケットをなびかせて木々の間に消えていったのは間違いなくジュードだろう。やはり一人にすべきではなかったのだろうか。
 考えてその答えの出る前にアルノーはベッドに放り出していた上着をつかむと、扉を開けて部屋の外に出た。
 灯りのない廊下は部屋の中より暗かったのだが、アルノーはそこに人影をみとめて目を見張った。ラクウェルとユウリィもちょうどそれぞれの部屋から出てきたところだったのだ。二人とも寝巻き姿ではなくいつもの服装に上着もはおっていたので、アルノーと同じ理由で出てきたのだということは尋ねるまでもなかった。
 しかしアルノーは明るく笑って口を開いた。
「俺、ちょっと夜の散歩に行ってくるわ」
 アルノーの言葉を聞くや否や、わたしもとユウリィの口が動きかけたのがわかったが、アルノーはそれが音になる前に次のセリフを口にした。
「二人は女の子なんだから、夜間の外出は控えた方がいいぜ?」
「アルノー」
 とがめるような口調でアルノーを呼んだのはラクウェルだ。彼女たちが何を言いたいのか承知の上でアルノーは首を振り、話を変える。
「で、ユウリィに頼みがあるんだ」
「わたしに?」
 首を傾げるユウリィに向かって片目をつぶっておどけてみせる。そうしてアルノーは頼み事の内容を言った。
「この季節でも夜の森は冷えるだろ。戻ってきたら温かい飲み物を用意して欲しいんだけどな。二人分」
「二人分、ですか?」
 目を丸くした少女にさらに注文をつける。
「そ。できればコーヒーとホットミルクで」
 どちらがアルノーの分で、残った方は誰の分なのか。言わずともそこは伝わった。ユウリィの顔がほころぶ。
「はい。体が冷える前に戻ってきて下さいね」
 快く頼みごとを引き受けてくれた少女によろしくと手を振って外へと続く扉へと向かう。が、その取っ手に手をかける前にアルノーは首のマフラーを引っ張られ、軽くのけぞった。説得するべき相手がもう一人いたことに頭を痛めながらアルノーは振り返った。
「ラクウェル?」
「私も行こう」
 ユウリィが納得してくれたどさくさに紛れて行ってしまおうと思ったのに、さすがにごまかされてはくれないらしい。ラクウェルの視線は厳しいものだった。
 彼女も自分と同じように外にいる少年を心配し、気遣ってもいるのだろう。それはわかっているのだが、アルノーは彼女の主張にうなずけなかった。夜の空気は彼女の体によくない。それに。
「俺一人で大丈夫だって」
「しかし、二人の方が早いだろう」
 夜の森を闇雲に探すのだ。確かに人数の多い方が効率的だ。しかし、この場合問題なのは探すことより見つけた後なのだ。
「あいつはフェミニストだからなー」
「何?」
 あいまいな物言いでは退いてくれそうにない。アルノーは散歩などとごまかすのはやめることにした。短く端的に一人で行くその理由を説明する。
「男は可愛い女の子の前ではカッコつけちまうからな」
 女の子を見たのはユウリィが初めてだという割に、もしくはそのためなのか、ひたすら女の子には丁重で優しいジュードのことだ。衝動的に涙があふれてきたらしいあの時ならともかく、今となっては泣きたくても泣けないだろう。まあ、アルノーなら頼ってくれるのかと聞かれれば、実は自分でも少々心許ないのだが、それでも女性陣よりは気安いのではないだろうか。
 だから待っていてくれと肩を叩くとラクウェルの表情が固くなった。怒らせたかとアルノーの背筋が凍る。選んだ言葉が軽かっただろうか、それとも内容がふざけていると思われたのだろうか。何より自分の態度に説得力というものがなかったのだろうか。一応真剣に考えた末の結論なのだが、「可愛い」なんて言葉を使ったので、いつものようにからかっているのだとでも受け取られたのだろうか。
 余裕をかもしだしたくて常に気取っているお気楽な態度が、こういうときに災いするのだ。日頃の行いって大事だよなとため息をつきかけたアルノーだったが、意外なことにラクウェルがアルノーの胸を押す方が早かった。
「え?」
 意味を量りかねてアルノーが眉をあげると、ラクウェルは固い表情のままさらにアルノーを押しやった。
「行ってこい」
「あ、ああ」
 ラクウェルを説得できたという手応えはなかったのだが、とりあえずお許しが出たのでアルノーは扉を開けて外に出た。何が良くて何が悪かったのかと首をひねりながら、アルノーは暗い森へと入っていった。

続く

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