優しい世界 おまけ

「アルノーもありがとう」
 ジュードの謝意にアルノーは手にしたコーヒーカップを軽く掲げて答えた。
 そしてそれを口に運びながら苦笑する。年少の仲間の生真面目とも言えそうな律儀さに感心半分にあきれたのもあるが、そんなふうに気遣われてしまう自分がおかしかったのだ。多分、真面目には違いない年下の少年は、お礼を女性二人だけに言ってすませたのでは、アルノーがすねるとでも思ったのだろう。
 あいつめ。
 気遣ってくれるのはいいが先輩として尊重されているとは思えないその内容に、アルノーは眉をしかめた。けれどそこでこみあげてくるのは怒りではない。口に入れたコーヒーを吹き出さないよう苦心しながら、ホットミルクを抱えこんだジュードを見るアルノーの口元はほころんでいる。
 結局、ジュードが何を思い悩んでいたのか聞き出すことはできなかった。崩れ落ちる洞窟でもそうだったように、泣き出したジュードは自分で泣きやんで歩き出した。どうして泣き出したのか、どうして夜中に抜け出したのか、その理由はアルノーにはわからないままだ。
 それでもアルノーは満足していた。元々口を割らせるために追いかけたのではない。無事に連れて帰ったジュードが今ユウリィと笑顔で話している。その姿だけで充分だった。
 そもそもジュードの方がアルノーより強いのだ。面と向かって言ってやったりはしないが、ジュードのしなやかでその上強靱な心をアルノーは誰よりも認めていた。何があったにせよジュードは自力で受けとめて、そして受け入れていくことができるだろう。必要なのは時間だけだ。ただ、その時間を一人で過ごすことはない。
 それが伝わったならそれでいい。
 よくやった、俺。などと自分で自分を褒め称えながら、年下の仲間達を見るアルノーの目が細くなった。そうして残りのコーヒーを口に入れようとして、アルノーは左隣に視線を流した。大きな赤いリボンと長い髪が視界に揺れる。同じくコーヒーのカップを手にした人が、アルノーの横で壁に背を預けた。その背と壁がぶつかった軽い振動がアルノーに伝わる。
「ラクウェル」
 そういえば出がけに彼女の機嫌を損ねてしまったのだということを思い出し、アルノーの頬がひきつった。しかも彼女の不機嫌の原因は今でもさっぱりわからないままだ。
 原因がわからなければご機嫌のとりようもない。天を仰いだアルノーだったが、ラクウェルの頭が自分の肩の上に乗ってきたのでアルノーの視線はすぐに左隣に戻った。
「ラクウェル?」
 人肌好きな(いやらしい意味ではない。決して)自分と違って、ラクウェルの方から近づいてきてくれることは滅多にない。というよりほぼ皆無だ。それなのに今こうしてくれるということは、ひょっとして怒ってはいないのだろうか。
 希望的観測を抱くアルノーだったが、こわばったままのラクウェルの表情がそれを確信にはしてくれない。自慢の頭も口も、こと彼女に関しては回転が悪くなることがある。今がまさにその時だった。
 窮地のアルノーだったが、彼を救ってくれたのは先に口を開いてくれたラクウェルだった。
「あの言葉だが」
「あの?」
 どの言葉だろうか。アルノーは普段の口数が多いだけにすぐ思い当たるものが出てこない。首をひねっていると、ラクウェルが強い口調で言い添えた。
「女の子の前ではカッコをつけるとかなんとか言っていたあれだ」
「ああ」
 答えの分かったアルノーの背を冷たいものがつたう。それを自分が言った後、彼女の機嫌が悪くなったのだ。今のラクウェルの表情も声も固いままだということは、やはり機嫌は戻っていないということか。
 これから始まるのはお説教なのか何なのか。先の展開を思うアルノーの頭を黒い影がよぎる。が、次のラクウェルの言葉でそれがはじけた。
「お前もそうなのか?」
「へ?」
 はじけたのは不安が去ったからではなく、展開がますます読めなくなったからだ。彼女は何を尋ねたいのだろうか。回転が鈍った思考と舌は一向に回復せず、さっきから自分がまともな受け答えをしていないということだけはわかるものの、やはりアルノー口から漏れたのは間抜けな音だった。
「だから!」
 ラクウェルの語気が強まった。
「お前も女の子の前ではカッコをつけるのかと訊いているのだ」
「まあ、そりゃ俺だって男だから、女の子にはいいとこ見せたいと思うけど?」
 相変わらず厳しい語調のラクウェルに、おっかなびっくり答えたアルノーだったが、ふとラクウェルの頬に昇った色に気づいて体の力が抜けた。色白なのでよく目立つのだが、その頬は紅潮していた。しかも、それが怒りによるものではないということが、アルノーにはこれまでの経験からわかってしまったのだ。
 これは照れてる、のか?
 叱られるわけではないとわかって余裕の出来たアルノーだったが、展開が読めないのは変わらない。首を傾げていると、ラクウェルがアルノーを見上げてきた。
「私はそうしてほしくない」
「ラクウェル?」
「カッコなどつけず、そのままのお前でいてほしい。悩みがあるのなら私にも聞かせてほしいし、泣きたいなら私の前でも泣いてほしいのだ」
 表情は固いまま強い視線でアルノーを見据え、ラクウェルはそう言った。そして言い終えるとすぐにラクウェルは視線を正面に戻した。頭もアルノーの肩からはずし、口を固く引き結んで姿勢を正す。そうしてそれきりアルノーのことなど忘れたかのようにコーヒーを口に運ぶ。
 まるで仇にでも対するかのようにコーヒーを干していくラクウェルの頬は変わらず赤い。
 そのラクウェルの隣でアルノーは再び天を仰いだ。
 参った。
 片手で額にかかった髪をかき上げながら小さくつぶやく。それは半分以上俺のセリフだ。
 ラクウェルからの要請はアルノー自身の願いでもあった。カッコつけているとは言わないが、何かと強がったり無理をしたりするのはむしろ彼女の専売特許ではないか。悩みも苦しみも悲しみも涙も、そして何より幸せと笑顔も、全部見せてほしいのはこっちの方だ。
 ラクウェルの視線の先にもいるであろう年少の仲間二人を見ながら、アルノーはさらに低くうなった。
 まったく、そんなことを今ここで言われてどう対応しろというのか。ここでは何もできないではないか。
 怒ったような表情を変えようとしないラクウェルを見下ろして、アルノーはとりあえずの回答を避けた。言葉だけでは足りそうにないからだ。
 この後彼女の部屋にもぐりこむのと、自分の部屋に彼女を連れ込むのと、どちらの方がたやすいだろうか。
 冷めかけたコーヒーを一気に飲み干しながら、アルノーはよからぬ企みをめぐらせた。

終わり

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