優しい世界

 キィと開いてパタンと閉じる。
 扉のたてた音が思いの外大きかったので、ジュードは首をすくめて辺りをうかがった。
 息を殺して耳を澄ませて、誰も起きてくる気配がないことに安心して息をつくと、ジュードは体を回し、改めて黒く沈む森の中へと足を踏み出した。


 神の剣をどうにか止めることに成功し、イルズベイル監獄から戻ったジュード達はハリムの人達の温かな出迎えを受けた。無事で良かったと向けられた笑顔、お腹がすいているでしょうと振る舞われた豪勢な料理、そして疲れているだろうからと用意された部屋。
 ゆっくりできるようにとわざわざ一人に一部屋ずつあてがってくれた心遣いをありがたく受け取って、ジュード達は夕食後それぞれ別の部屋に入った。
 本当はみんなと離れがたいような気分もあったのだが、みんなが疲れているなら邪魔をするのも悪いと思い、ジュードは何も言わなかった。言えばアルノーにまた「おこちゃま」とからかわれるような気がしたということもある。
 それに、一人にもなりたかったのだ。
 みんなと一緒にいたかったけれど、一人でゆっくり考えたかった。何を考えたいのかは自分でもよくわからなかったのだけれど、みんなの前で普通の顔をし続けるのは難しいような気がした。
 しかし結局、一人でいても落ち着かなくて、こうして出てきてしまったのだ。
 夜の森はひんやりとした空気に包まれていた。
 何も灯りを持ってこなかったことを一瞬だけ後悔したが、目が慣れてくればそれほど不自由はしなかった。月明かりも星明かりも今夜は充分すぎるほどあった。
 さくさくと足元で音をたてる草が心地よい。乾いた砂の上を歩くのとは全く違う、柔らかく弾むような感触に、ジュードの足取りも少しだけ弾む。
 そのままどこまでも歩いていきたいような気もしたが、さすがに暗い森の奥へ一人で入るのは危ないと、なんとか思いとどまることができた。
 集落の灯りがまだ見えるところで足を止め、適当な木に背中を預けて座り込む。
 そうしてぼんやりとゆれる灯りを眺めていると、木の葉をゆらす風の音が耳をかすめた。
 深く息をすれば、体の中に水の匂いが染みこんでいく。
 この村の緑と水の豊かさに包まれてジュードは目を閉じた。
 脱出ポッドで漂流して初めてこの大地に降り立ったとき、ジュードがまず驚いたのは、世界が乾き荒れていることだった。アルノーとユウリィにどこもこんなもんだと聞かされてさらに驚いた。そして旅を続ける中でそれが事実だということを知った。
 もちろん、豊かな水も森も世界から完全に失われていたわけではなかった。けれど、普通に人の住んでいるような場所はたいてい乾いた風が吹いていた。
 自分がずっと当たり前だと思っていた環境はとても特別なものだったのだ。
 ジュードはなんとなく側に落ちていた木の枝を拾い上げ、それで地面をひっかき始めた。
 かりかりと小さく音をたてて、細く短い溝を作っていく。特に何かを書こうとしたわけではない、半分無意識の動作。
 溝が増えるにつれ、ふと感じた土の香りに懐かしさを覚えて、ジュードは唇をかんだ。
 水をたっぷり含んだ柔らかい土の匂い。ハリムの豊かな森を支える土。この世界では貴重ともいえるそれを、自分は懐かしいと思う、思えるその幸運と幸福に胸が痛かった。
 ずっと守られていたのだと、今になって思い知る。
 澄んだ空気も、あふれる緑も、清らかな水も、当たり前のものだと思っていた。
 幸せだとか、恵まれているだとか、そんなことを考える必要もないほど当たり前に自分を囲んでいたそれらがどれほど貴重で特別なものだったのか、それが今さらながら身にしみて痛い。
 たくさんの笑顔とそれよりは少ない小言とに囲まれて、穏やかに過ぎていった日々。
 世界から隔離されたあの村で、母と村の大人達に、ずっと守られていたのだ。
 本当に自分はなんと幸福な子供だったのだろう。
 その上、自分を守ってくれていた人が村の外にもいたなんて。
 そんなこと、全然知らなかった。
 ジュードはひざを引き寄せて両手で抱え込むと、その上に顔を伏せた。
 ずっとその存在すら知らなかったけれど、母と自分とその他の多くの人のためにこの世界を守ってくれた人がいた。
 その人にもずっと守ってもらっていたのだ。
 その人の手は傷だらけで、そしてとても大きかった。
 手にしていた棒を放り出すと、からんと乾いた音がした。伏せたままの頭の上を風が通り抜ける。髪を揺らしていくそれは少し強くなっていた。
 自分の横をすり抜けていく風が体の中をも通り抜けていくような感覚に、ジュードは膝をかかえる腕に力を込めた。
 何かがこみ上げてくるようで、こない。胸の中が何かでいっぱいになりそうなのに空っぽだった。
 今、僕は泣きたいんだろうか。怒りたいんだろうか。
 そのままじっと座り込んでいると、かさりと草の鳴る音がした。ジュードが顔をあげると目の前に片手を腰にあてたアルノーが立っていた。
「アルノー」
「散歩か?」
 口の端をあげたいつもの軽い口調での問いにとっさに答えられず黙っていると、アルノーがひざをついて目線を合わせてきた。
「どうした?」
 ん?と首を傾けているアルノーの翠の瞳が自分の目をのぞきこんでいる。
 しかし、応える言葉が出てこなかった。両手で抱えていたひざに再度顔をうめて、ジュードは表情をアルノーから隠した。鏡なんてここにはないが、それでも自分の顔がずいぶんとなさけないものになっているのがわかったからだ。
 そうして動かずにいると、アルノーが立ち上がる気配がした。
「言えないか? まあそれなら別に言わなくてもいいさ」
 小さくつぶやかれたその言葉には小さな吐息が混じっていた。ため息のようなそれをこぼしたアルノーがどんな顔をしているのか気になってジュードが顔を上げると、アルノーはもう背中を向けていた。
「確かにここは涼しくて気持ちがいいが、そろそろ戻った方がいいぞ。もう夜中に近いしな」
 そうして村へと歩き出すアルノーの背中でマフラーがふわりとゆれた。
 アルノーが目立つためにつけたのだというそれは暗い中でもよく見えた。それが遠ざかり、暗闇にとけこんでいく。
 思わずジュードは立ち上がっていた。手を伸ばし、視界から消えそうになっていたマフラーをつかむ。
 力を入れて引き寄せると、うわっと慌てたような声が聞こえてきた。
 ジュードも慌てて手を放す。
「な、何すんだ、いきなり?」
 マフラーはアルノーの上着の襟に結ばれている。首に巻いているわけではないので、引っ張られたところで首がしまるわけではない。が、それでも前へ行こうとしているところをいきなり後ろから引き戻されたのだ。きしんだ肩と首とに手をやりながら振り向いたアルノーが、怪訝そうに眉を寄せている。
「ご、ごめん」
 ジュードはとりあえず謝ったが、その後何を言えばいいのかわからず、また目を伏せた。
「いや、いいけどよ。どうした?」
 アルノーは怒っていなかった。まだどこか痛むのか首を左右に傾けて調子を整えているが、その顔は不思議そうに眉が下がっているだけでそこに怒りの色はない。
「えっと、あの」
「やっぱり、言えないのか?」
「それは……」
 上手な弁解が浮かばなくてジュードの口が開きかけては閉じた。そもそも何に対しての弁解がしたいのかわかっていないのに、言葉が浮かぶわけはない。
 ジュードのそんな様子に、アルノーは傾けていた首を元に戻してジュードの頭に手を置いた。
「うまく言えないなら言わなくていいんだぜ? 仲間だからって何もかも話さなきゃならないってことはないさ。まあ訊いたのは俺だけど、別に絶対答えろって言ったつもりはないし」
「アルノー?」
 見上げたアルノーの口元がにっとあがった。
「全部話すことだけが、信頼の証ってもんでもないだろ」
 そうしてアルノーはジュードの髪をくしゃくしゃとかきまわしてさらに笑った。
「ま、そういうことがわかるくらいには、俺も大人になったんでね」
 片目をつぶっておどけてみせる。そんなアルノーにジュードも笑顔を返そうとしたが、うまく笑えなかった。ぽんぽんと頭の上で弾むあたたかい感触に、さっきから胸の底で沈んでいたものがこみあげてくる。
 アルノーの手はあの人のものより小さかったが、同じようにあたたかかった。
 そうだ。あの人の手は、あたたかかったのだ。そしてとても優しかったのだ。
「ふっ」
 小さく声が漏れた。我慢はそこで限界だった。
 アルノーの体にしがみつく。受け止めてくれた胸に顔をうめ、声をあげてジュードは泣いた。
 崩れかけてきた洞窟で同じようにしたときは、アルノーをずいぶん驚かせてしまったらしい。どうしたんだと何度も尋ねられていたような気がする。それに答える余裕はどこにもなかったのだけれど。
 今度はアルノーは驚かなかった。どうしたのだとも訊かなかった。ただ、ジュードが泣きやむまで背をなでてくれていた。
 声をあげて、ひたすら泣いて、いいかげん苦しくなってしゃくりあげていると、大丈夫かと優しい声が降ってきた。
「ごめん、ぐしゃぐしゃだね」
 涙がようやく尽きてきた目をこすりながら顔をあげると、アルノー自慢の服がぐっしょりと濡れてしわくちゃになっていた。悪いことをしてしまったとジュードは少し青くなったが、アルノーはまったく気にした様子がなく、ひらひらと手を振った。
「あ? いいって気にすんな。泣きたいときに泣くのはおこちゃまの特権さ」
 気にするなと言ってくれるのはいいが、おこちゃま扱いされると素直に受け入れられない。
 ジュードの表情が固くなったことに気づいたのだろう、アルノーは指でジュードの鼻先をはじくと両手を腰に当てて、なぜか偉そうに胸をはってこう言った。
「俺だって、泣きたいときには泣くしな」
「アルノーも?」
 ジュードが目を丸くすると、アルノーは片目をつぶって答えた。
「ああ、俺もまだまだおこちゃまなんでね」
 そうしてさらに胸をはる。しわだらけの服でかっこつける姿がおかしくて、ジュードは吹き出してしまった。
 けれど、おこちゃまだと言って胸をはるアルノーは、ジュードの目にどこか頼もしく映った。今までで一番大人に見える。自分は大人なんだと言い張っていたときより、おこちゃまだと言う今の方が大人に見えるというのもなんだか妙な気がする。
 もうすっかり涙は止まった。涙と一緒になにか色々なものが流れていってしまったような気がするのに、何故だか胸の穴はふさがっていた。もう風は通らない。
  ジュードはすっかり曇りの無くなった大きな青い瞳でアルノーを見上げると、明るい声でお礼代わりにこんな申し出をした。
「じゃあ、アルノーが泣きたいときは、僕がついていてあげるよ」
「そいつは頼もしいな、ぜひお願いする」
 うん、きっとねとジュードがうなずくと、アルノーは肩をすくめて首をめぐらし、森の奥を見やって言った。
「じゃ、しばらく散歩するか」
「え? 帰るんじゃないの?」
 意外な言葉にジュードが驚くと、アルノーがあきれた顔で見下ろしてきた。
「お前、その顔で帰る気か?」
 言われてみればまぶたが熱い。頬もなんだかごわごわする。さわってみると顔は熱を持っていて、心なしか腫れているような感じがした。
 あれだけ泣いたのだから、考えてみれば当たり前だ。
「じゃ、歩くか」
 とりあえず顔が洗えるとこに行こうぜと先に歩き出したアルノーの後を追う。まぶたがひりひり痛み出したジュードに反対する理由などどこにもなかった。


 顔を洗ってしばらく森の涼しい空気にさらして、なんとか腫れが気にならない程度に収まった頃、戻った宿にはこうこうと明かりがついていた。
 もうずいぶん遅い時間のはずなのにと、とまどうジュードにかまわず、アルノーはさっさとドアを開けた。ジュードもためらいつつアルノーに続いて中にはいると、ふわりと甘い香りが体を包んだ。
「おかえりなさい、ジュード。アルノーさん」
「おかえり、ジュード。アルノー」
 続いて二人分のあたたかい声がジュードを迎えてくれた。
 ジュードが出て行くときには寝ていたはずのユウリィとラクウェルの笑顔に、ジュードは目を丸くした。二人とも寝巻きに着替えてすらいない。
「え、二人とも、まだ起きてた、の…?」
 ジュードの問いに直接答えずユウリィはただ穏やかに微笑んだ。そしていったん奥へ姿を消し、しばらくして戻ってきたときにはカップが四つのったトレーがその手にあった。
「どうぞ」
「ありがとう」
 驚きととまどいの冷めぬままにジュードがとりあえず受け取ったカップはほかほかとあたたかかった。立ち上る湯気には甘い香りが含まれている。ここに入ったときに感じた香りの正体はこのホットミルクだったらしい。
「いくらこの季節とはいえ、この時間だ。寒くはなかったか?」
 そう言いながらラクウェルがいすをすすめてくれた。
「ううん。大丈夫だよ」
 まだ赤い目に気づかれるのではないかと冷や冷やしながらすすめられたいすに腰を下ろす。アルノーを見れば、壁にもたれて立っている彼の手にもあたたかそうなカップがあった。多分あっちの中味はコーヒーなんだろう。
 口をつけるとじんわりとぬくもりが体に広がっていった。少しだけ加えられた砂糖の甘さが優しい。
 ゆっくりとかむようにしてミルクをお腹に入れていきながら、ジュードは暗い夜の森でこわばっていた体が、指の先までほぐれていくのを感じた。のどを通りすぎていったミルクのぬくもりが胸にたまっていく。後から後から胸の奥の方から熱が生まれて、そのうち自分の体からほこほこと湯気がたってしまいそうだ。多分、今赤いのは目よりも顔だ。
 本当に自分はなんと幸せな子供なのだろう。
 ジュードは闇の中で一人かみしめていた思いを再びめぐらせた。
 ずっとあの美しい村で守ってくれた人がいた。
 村の外で自分のために世界を守ろうとしてくれていた人がいた。
 自分を取り巻いていた幸福と幸運。それを思ってももう心は軋まなかった。もう胸の中はからっぽじゃない。あたたかくて優しくて、大好きなものがいっぱいにつまっている。
 自分はたくさんの愛情に包まれた幸福な子供。昔も。そして今も。
「ありがとう。ユウリィ、ラクウェル。とてもおいしいよ」
 両手でカップを包んで頭を下げると、二人の微笑みが返ってきた。何も言わずにただ穏やかに笑う二人にジュードも笑顔を返す。
「アルノーもありがとう」
 夜の森に迎えに来てくれた人にも、彼がすねたりする前にきちんとお礼を言っておいて、ジュードはカップのホットミルクに専念した。


 僕は本当に幸せだ。
 あの美しい村で、村を出てからの旅の中で、そして今ときっとこれからも、僕のことを大切に思ってくれる人がいる。
 僕も、それを返せるようになりたい。
 みんなが僕を守ってくれるように、僕もみんなを守りたい。
 この優しい人たちを、世界に残る美しいものを、ずっとずっと守っていきたい。
 だから、僕はちゃんと大人になろう。
 今まで受け取ってきたたくさんの愛情と幸福を、他の人にもわけてあげられるように。

 大人になるんだ。

終わり

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