第十三話 ひとりじゃない

「昨日喜ばれたから調子に乗っちゃったんだろ? カオル」
 ハワードの言葉はカオルの胸を刺した。その傷口からわき出した思いがある。けれどそれが流れる先はハワードではなかった。
 胸の中じわりと染みのように広がったその思いは、ひたすら自分自身に向いていた。
 馬鹿馬鹿しい、と。


 刃を研ぐ音は、静かな岸辺ではずいぶんと響いた。その音で耳をいっぱいにしながら、空高く昇った満月の光を頼りに、カオルはナイフを磨き上げる作業に集中しようと努力を続けていた。
 あの時、カオルは今日の獲物の処理を口実にして場を離れた。胸に満ちた思いが苦くて、夕食の匂いに満ちたあの場所に留まることに耐えられなかったのだ。
 けれど結局染みは落ちない。獲物の解体も道具の手入れも、時間と手間はかかるがすっかり慣れてしまった仕事だ。どれほど手を動かしても、思考の妨げにはならない。
『調子に乗っちゃったんだろ?』
 もう何度も頭の中で繰り返されたハワードの声が、また聞こえてきた。カオルはナイフを動かす手にさらに力を加えたが、今までもそうだったように、それで声が消えるわけでも、巡る思考が止まるわけでもなかった。
『調子に乗っちゃったんだろ?』
 そうかもしれない。
 あの時反射的に浮かんだのはそんな言葉だった。
 そうかもしれない。自分は調子に乗っているのかもしれない。
 みんなの食料を集めること。その仕事は役目は、単なる義務もしくは義理でしかなかったはずだ。けれど、ハワードに言われてカオルは気づいてしまったのだ。その役目を果たすために、今自分が「がんばっている」ということに。
 必ず何かを持ち帰れるように、何らかの収穫を獲物を求めて「がんばって」走り回る。気づいてしまった自分のそんな姿は、ひどく滑稽なものだった。確かに調子に乗っていると言われても仕方がない。
 苦い気分が胸を満たす。月明かりの中カオルは厳しい表情でひたすらナイフを磨き上げる。
 いつから自分は「がんばって」しまうようになったのだろう。
 何のために「がんばって」などいるのだろう。
 ――いえで待つ「みんな」のために?

 馬鹿馬鹿しい。

 ひとりごちたカオルの耳が、今度は現実の音を拾った。軽い足音に視線だけを向けると、ルナが立っていた。これ、と差し出された器には今日の夕飯が盛られている。気遣わしげな視線がうるさくてカオルは何も答えずに作業を再開した。
「私の言ったこと、気にしてるの?」
 そのまま立ち去ってくれればよかったのだが、やはりルナはそうしなかった。わざと高い音をたてて作業を続けるカオルの態度が気にならないはずはないだろうに、表情も変えずに言葉を継ぐ。
「みんなに心配かけないで欲しい。それだけなの」
 気に入らなかった。
 優しさ、気遣い、心配。そういったものに満ちたルナの表情も声音も、そして言葉の内容も。彼女の言う「みんな」がどういう意味を持っているのか、カオルは知っていた。
 これ以上そんなものが自分に向けられてはたまらない。仕方なくカオルは口を開いた。
「何も、心配するな」
 そんなものはいらない。
「それに心配なんか心からできるやつは、この世にはいないさ」
 思わずこぼれた本音。他人のことは知らないが、「カオルの」心配を心からできるやつは、いない。そんなもの自分には似合わない。ふさわしく、ない。
 しかしそれでもルナは引き下がらなかった。穏やかな口調もそのままに、さらにカオルの説得を続ける。
「どうしてそんなこというの? 遭難してから今までお互いを心配する気持ちがなくてどうして助けあってこられたと思うの? カオルにも色々助けられているし、みんなもカオルを助けているはずよ」
「みんなが勝手にやったことだ」
 作業の手も止めず、カオルはいくぶん強い口調で言い切った。もうこれ以上聞きたくはなかった。自分はみんなのために動いたりなどしないし、みんながカオルのために動く必要もない。そんな関係はわずらわしいだけだ。心配をすることもされることも、もううんざりだった。
「……とにかく、もう単独行動は辞めてね」
 頑なな態度を崩さないカオルに、ようやくルナもあきらめてくれた。最後にそう言い残してみんなのいえへと戻っていく。カオルのために持ってきた夕飯を残していくことは忘れなかったが。
 カオルは、けれど傍らに置かれたそれに目もくれず、ただナイフを磨き続けた。
 
『みんなに心配をかけないで欲しい』

 作業を続けるカオルの耳に今度はルナの言葉が蘇る。ルナの言う「みんな」とは「仲間」のことだ。
『仲間が心配するから単独行動は辞めてほしい』
 ルナが言いたいのはそういうことだ。
 ルナの願いを要約したカオルは、先ほど一人でこぼした言葉を胸の内で繰り返す。
 馬鹿馬鹿しい。
 仲間も、心配も、いらない。そんなものは自分には必要ない。それらは自分にふさわしいものではない。
 磨き上がった刃を満月に掲げる。光を弾いたそれがカオルの顔を映す。曇りのない輝きの中でカオルの表情はどこまでも苦々しい。
 カオルはすぐにそこから目をそらし、手入れの終わった道具を手に立ち上がった。

  
 ルナが用意してくれた夕飯に、カオルは結局手をつけなかった。
 それは「仲間の」ために用意されたもの。
 それを食べる資格が自分にあるとは、思えなかった。

終わり

前のページに戻る