第三十八話 私、負けないよ

 嵐は収まった。
 しかし日の昇らぬ海は暗い。視界いっぱいに黒々と広がる空間。水平線も、波の様子もわからない。
 それでもベルは暗い水面に精一杯目を凝らし、あのとき引き上げることのできなかった明るい色を探した。
 あれからずっとかみ締めたままの奥歯が悲鳴をあげているが、力をゆるめることができない。どうしようもない苛立ちに、ベルはこぶしを振り上げ、船のへりにそれをたたきつけようとした。
「ベル?」
 後ろからかかった遠慮がちな声に、振り上げたこぶしをおさめて振りかえる。自分よりずっと低い位置にある緑の目が心配そうな光をたたえてこちらを見上げていた。
「シャアラ」
「少し交代しましょう」
 きっとさっきの様子を見ていたのだろう。しまったなと思いながらそれでもベルは笑顔を作った。
「俺はまだ大丈夫だ。シャアラだって、さっき休んだばかりだろう? もう少し寝ておいでよ」
 しかし、シャアラは首を振った。
「ううん。わたしの方こそもう大丈夫。ちゃんと眠ったもの。ベルは全然寝ていないでしょう。だから休んで」
 強い調子での説得。気遣いの言葉。
 ありがたいとは思う。けれども一方で迷惑にも感じた。眠れるわけなどないのだ。休んでなどいられなかった。今この時に、彼女に命の危険が迫っているとしたら。いや、迫っていないはずがない。
 だから、笑顔のまま、ベルも首を振った。
「俺は大丈夫だって。シャアラこそ…」
 言葉の途中でさっき振り上げた手をとられた。小さな両手がそれを包み込む。強い力を感じて、見ると、シャアラはベルの目をしっかりと見つめていた。
「ベルのせいじゃないわ」
 きっぱりとした口調に驚いてとっさに言葉がない。黙ったままのベルの視線の先で、シャアラは小さく口元をふるわせ、そしてうつむいた。
「…わたしが悪いのよ。船酔いくらいで弱気になって、ルナにすごく負担をかけてしまったわ。わたしがちゃんとしていたら、嵐にも、もっと早く対応できていたかもしれないし。そうすればきっとルナだってこんなことには…」
「シャアラ」
 自分のことを責める言葉を続けるシャアラを止めようと、言葉を探す。しかし、ベルの口が開くより先にシャアラが顔を上げた。
「だからね、ベル。わたし、ルナが帰ってきたら、うんと頑張ろうと思うの。今度こそちゃんとルナの力になりたいの。ルナは絶対無事だもの。絶対帰ってくるもの。そのときにわたし達が元気じゃないと、またルナに心配をかけてしまうわ」
 食い入るようにベルを見上げてシャアラが言う。
「だから、ベルも休んで。ちゃんと休んで、ルナをちゃんと見つけてあげなきゃ。そして、ルナをちゃんと迎えてあげなきゃいけないと思うの」
 自分の手を包む暖かさと力強さに驚く。
 この星に来たばかりの頃、一番守ってあげなければならないと思っていた小さな女の子は、いつのまにこんなに強くなっていたのだろう。自分と同じくらい、もしかしたらそれ以上にルナのことを心配しているはずのシャアラ。少し前ならただ泣き崩れていたに違いないのに。
 そのシャアラに向かって今度は本当に笑う。
「そうだね。ルナが帰ってきたら、ちゃんと休ませてあげたいよね」
「ベル」
 シャアラもふわりと笑った。
「じゃあ、俺は少し休んでくるよ。ここは頼んだよ」
「うん。しっかり休んでね」
 見送ってくれるシャアラに軽く手を振って船室に戻る。
 横になったところで、やはり眠れはしないだろうけれど。 
 固くこわばっていた体から、少し力がぬけている。悲鳴をあげていたはずの奥歯ももう静かだ。
 起きてしまったことを悔やんでばかりいないで、次にすべきことを考えなければ。そして今できることをしっかり頑張ろう。
 そうだよね、シャアラ。
 起きたら二人でルナを探そう。そして今度こそ絶対に見つけようと、ベルはしっかりと顔をあげて前を見た。

終わり

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