忘れぬもの

「ねえ、カオル覚えてる?」
 何をかと視線だけでカオルが問えば、隣に座ってきたルナが明るく笑いながらこんなことを言った。
「あの時、『その子にまかせるしかないな』って言ったこと」
 ルナの言葉は説明をすべて省いたものではあったが、それでもあの時がどの時なのか、カオルに分からないはずはなかった。
 修学旅行で重力嵐に遭遇するだけでも不運の極みだというのに、その上母船から取り残され、惑星に緊急着陸しなければならなくなった。しかもコンピュータがダウンし、自動操縦での大気圏突入は不可能となってしまった。
 そんなシャトルの中で、もしかしたら操縦桿を握ることになるかもしれないと考えたカオルの背に冷たいものが走った。そしてカオルがそんな自分を忌々しく思っていた、あの時だ。
『手動でいくで』
 そう言ったチャコに答えて、迷わず操縦席に座ったルナ。それを見たカオルが、やはり自分で自分をあざ笑いながら、けれど深く安堵していたことを、きっとルナは知らない。
「あの時がどうかしたのか?」
 思わずかげりそうになった表情と声をなんとか押しとどめる。幸いルナはカオルの顔から視線をはずしていたので、カオルの物思いには気づかなかったようだ。明るい笑顔はそのままにこう続ける。
「うん、ちょっとひどいなって思って」
 ひどいと言われてもカオルは驚かなかった。
 知識も経験もあるのに、操縦席に座ることから逃げた自分。皆の命がかかっていたあの状況で、その責任を負うことから逃げてルナに全てをおしつけた。ルナに任せる以外にも手が、それももっと良い手があることを知っていたのは他でもないカオルだけだったのに、『まかせるしかない』と言いきった自分はなんと卑怯だったのだろう。
 だからカオルは心からの謝罪を口にした。
「すまなかった」
「謝るって事はやっぱりそうなんだ」
 頭を下げたカオルにルナは口をとがらせた。
「ああ、悪かったと思っている」
 重ねて目を伏せたカオルだったが、続いたルナの言葉には眉をよせた。
「いくら転校生だといっても、一週間は経ってたのよ? それなのに覚えてくれてなかったなんてひどいわ」
 覚える? 何を?
 あの時のふがいない自分を思い出して、黒く煮詰まったようになっていたカオルの頭の中が一気に白くなった。
「体育でチームを組んだこともあるし、工事現場の事故のときだって助けてくれたのに、全然知らなかったのね?」
 話が見えない。
 ルナがあの時のことで腹をたてているのは間違いないようだが、その理由はカオルの心当たりとずいぶん外れたところにあるらしい。
 いくら考えても他に思い当たることが出てこないため、カオルは頬を膨らませて憤慨しているルナに恐る恐る尋ねた。
「いったい何のことを言っているんだ?」
「え? 分かったから謝ってくれたんじゃないの?」
「お前にシャトルの操縦をおしつけたことを怒っているんじゃないのか?」
 するとルナは明るく手を振ってカオルの懸念を笑いとばした。
「やあねえ、違うわよ。だって、あれはしょうがないじゃない」
 あの時は結局私でなんとかなったんだし、そんなことはいいの。とそう続けたルナの口調は優しくて、怒っていないというのはうそではないらしい。
 しかし、だからといって安心することはカオルにはできない。そのことではなくても、確かに何か気に入らないことがルナにはあるのだ。
「じゃあ、何に怒っているんだ?」
 それでも尋ねる以外に他に手がないカオルがそう言うと、ルナはまた頬を膨らませた。そして両手を腰に当て、下からにらむようにしてカオルの顔をのぞきこみ、いつもより低い声を出してきた。
「あの時、『その子』って言ったのは、私の名前を覚えてなかったからじゃないの?」
「……」
 それは図星であったので、カオルはルナの尋問に答えることができなかった。
 言い訳すら口にせず黙ってしまったカオルに、ルナは大げさなため息をついてみせた。
「やっぱり。クラスメートなのに、冷たいじゃない」
 カオルは深く沈黙した。あの時ルナの名を覚えていなかったのは確かだ。だがそれは。
 私はちゃんとカオルの名前覚えていたのにと、不満そうにつぶやいているルナを見下ろしてカオルは小さく呟いた。
「お前だけじゃない」
「え?」
 今度はルナが話を見失った。不思議そうに首をかしげてカオルの顔を見上げる。
「知らなかったのはお前の名前だけじゃない。名前を覚えているクラスメートなど一人もいなかった」
 床の上に視線を落とす。あの頃のかたくなな自分を思ってカオルは自嘲気味に笑った。
「ハワードの名前だけはそれでも知っていたな。だがそれは、ハワード本人というより財団の名が元々通っていたからだ。それに、なにかと言われる機会が多かったしな。『ハワードの親父さんに逆らってやっていけると思っているのか?』って、な」
 ハワードの取り巻きを真似たカオルの口調にルナは少し笑った。そして労わるようにカオルの手に自分の手を重ね、そのままカオルの次の言葉を待っている。カオルは床を見つめたままで言葉を継いだ。
「あの頃は、クラスメートが意味あるものだとは思っていなかったからな。オレは一人で何でも出来ると思っていたし、ずっと一人でやっていくのだとやらなければならないのだと、そうも思っていた」
 重なった手からルナの温もりが伝わってくる。そのあたたかさにカオルは改めて思う。あの頃の自分はなんと浅はかだったのだろう。
「だから、誰かの名を覚える必要などなかったんだ。そのことに意味があるとも思えなかったし、――意味があることも知らなかった」
 カオルの手を包むルナの手に力がこもった。
「今は?」
「え?」
 カオルが視線をルナに戻すと、真摯な青い瞳がそこにあった。
「今はもう、知っているんでしょ?」  
 カオルは自分を包むルナの手の、さらにその上にもう一方の自分の手を重ねて微笑んだ。
「ああ」
 カオルの微笑にルナも安心したように微笑んだ。
「せっかく覚えたんだから、もう忘れないでね」
「ああ。忘れない」
「絶対よ?」
 念を押してくるルナに、カオルは強くうなずいた。
「自分の名前を忘れたとしても、お前の名前は忘れないさ」
 その言葉を聞いたルナが花のように笑う。
 そうして両手を重ねた二人の顔が、ゆっくりと重なっていった。

終わり

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