ギャグ書きさんに無造作に10のお題 10:そして誰も (ヒカルの碁)


 仕事にしていることそれ自体は千年前からそう変わってないものなのだが、それを取り巻く環境や技術はずいぶん変わっている。自分がそれに初めて出会ったときと比べても、その変化はすさまじいほどだ。もっとも、こんなめまぐるしいスピードで世の中が変わるようになったのは、本当にごく最近のことなのだろうと思うけれど。

 ぽちぽちと、手元の小さな端末のさらに小さなボタンを押しながら、ヒカルは最初の一手を打った。
 今日の相手は最初からずいぶんと時間をかけて考えている。相手の手を待ちながら、そしてこの先の展開を読みながら、ヒカルは携帯電話の小さな画面をながめた。

 千年前は、こんな小さな機械で顔も知らない相手と対局ができるなんて、想像した人もいなかっただろう。ヒカルが千年後の対局の姿を想像できないように。
 千年前は誰も想像しなかった対局は、現在ではごく普通に気軽に行える。相手についてわかることは、それぞれが好きに登録した名前だけ。それ以外は何もわからない。顔も歳も性別も国籍も。面と向かって相手の気迫を感じながらの対局こそが本物だと言う人もいるし、ヒカルもそうだと思うけれど、こうした対局だって捨てたものではない。これがなければ一生関わるはずもない人とでも打つことができる。時々、思いがけない強敵に出会ったりすると、たまらないほど心が躍る。それに何より、ちょっとした空き時間でも有効に利用できるのがいい。

 碁バカを自覚するヒカルにとっては、まことに便利なツールなのだった。

 今回の相手は、残念ながら歯ごたえがなかった。たいして時間もかからず投了すると、ヒカルは次の相手を求めて画面を切り替えた。
 好きにつけられる名前だからなのだろうが、参加者の名前の並ぶ画面は非常に乱雑な眺めになる。やたら長いのがあるかと思えば一文字のものもあるし、カタカナひらがなAlphabet、日本語の豊かさを誇るべきなのかどうか、統一性のない文字の乱立はいっそ壮観だった。
 と、ヒカルの視線が一つの名前でとまった。アルファベットの大文字が三つならぶそれは、そこでは目立たないつくりをしていた。だからヒカルがそれを見たのは、工夫を凝らした名前だったからじゃない。ただ、見たことのあるものだったのだ。そしてとても懐かしい音が聞こえるものだったからだ。

 SAI。

 仰々しいものが多い中で、それはひっそりと列に加わっていた。
 SAI。ヒカルの口がそれを音もなく読み上げた。
 彼じゃない。わかっている。彼のはずはない。
 わかっていても、胸にこみあげてくるものを押しとどめることはできなかった。
 もし、彼が、ヒカル以上に碁バカの彼が、このツールを手にしていたら、きっと一日中放さなかっただろう。相手が弱くても強くても、きっと夢中になって一日中指していたのだろう。

 SAI。もう一度声もなくその名を呼んでから、ヒカルはくすりと笑みをもらした。
 もっとも、彼はこれに限らず物を持つことができなかったのだから、そうしたくてもできるはずがないのだけれど。だからきっとヒカルをうらやましがって大騒ぎしたのだろう。どうしてこんなもので碁が打てるのかと、さんざん不思議がったり面白がったりした後で、自分もやりたいやらせてくれと、しつこくせがんだに違いない。
 そうしたらきっと自分はうるさがって、どなりつけたに違いない。

 ぱくりと音をたててヒカルは携帯電話の画面を閉じた。もう休憩は終わりだ。そろそろ行かなければ。
 歩き出して、ヒカルはもう一度さっきみた画面を思い浮かべた。
 ひっそりと、対局相手を待つ列に並んでいた名前。
 あの頃だったら、と思う。
 あの頃だったら、SAIという名前がこんなところに並んでいたら、きっとすぐに対局希望者が現れたに違いない。そうしてたくさんの人がその対局を見守ったことだろう。もしかして、あのSAIじゃないのかと期待をかけて。
 けれど、今ではもうそういうことはない。あの頃からずいぶんと時は流れ、SAIという名前が注目を浴びることはもうない。いつかはみんな忘れてしまうのだろう。そんな名前があったことも、あの対局のことも。
 そして誰もSAIを知らなくなっても。

 それでも自分だけはきっと、今と同じ気持ちで、彼を思い出すに違いないのだ。

 たとえどれほど早く世の中が変わっていっても、千年前と変わらないものもあるから。
 きっと自分だけは。

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