雨の日で10題...2 10. 雨と共に舞え(遙か)
風が強かった。
風にあおられた木々がその葉に乗せていた滴を一気に振り落とした。
譲は傘を持つ手に力を込めて、風と、叩きつけるように降ってきた水滴をやりすごした。
一瞬の嵐が収まると、譲は止まっていた歩みを再開した。目的地まで、もう少し登らなければならない。
風は強かったが、雨は静かだった。細い糸のような雨は、傘に当たってもほとんど音がしない。それでも、朝からずっと降り続いているので、山肌はすっかり湿って柔らかくなっている。けれど、譲の足取りは順調だった。ここの辺りの山道は散策用に舗装されているので、雨だからといって崩れるようなことはない。傘を持つのが、少しばかり煩わしいだけだ。
ほどなく譲は目的の場所までたどり着いた。
舗装された道のすぐ脇、同じ高さで、笹がまとまって茂っている。雨がまとわりついた笹は心なしか少し辛そうに見えた。
今日は7月7日。譲の目的はこの笹にあった。
舗道からでも笹には手が届く。けれど、譲は手を伸ばさなかった。数瞬、眼鏡の奥で目を細め何ごとかを考えて、そうして譲は一歩道から踏み出した。笹の茂みは奥まで続いている。道から外れて、譲はその奥へと足を運んだ。
落ちた葉がつもった土は軟らかく、またそのおかげで譲の靴は泥に沈まずにすんだ。ふかふかと弾む葉の上を歩いて、譲は手頃な笹の前にかがみ込んだ。これでいいかと小さくつぶやいて傘を下ろす。
七夕だから笹飾りを作ろうよ。
だから笹を取りに行こう。または取ってきて。
毎年この時期になると、譲にかけられていたその言葉が、今年はなかった。
もう子供といわれる年齢をとうに過ぎても、飽きずに笹飾りをこしらえていた年上の人は、もう鎌倉にいない。この世界でも、あちらの世界でも。
今年はもう、笹を取らなくてもいい。持って帰っても受け取ってくれる人がいない。
だから譲は笹を切らなかった。そのための道具も持ってきていない。
譲が持ってきたのは、一枚の短冊だった。たった一つ残った願いを、譲はそれに記して持ってきたのだった。
その短冊を譲は目の前の笹に結びつけた。
やまない雨がすぐにそれを湿らせていく。
今日が雨だと知っていて、わざと光沢のある紙を選んだ。
つややかな面に墨で書かれた譲の願いを、細い雨がなぞる。
譲の願いが雨の中に溶けていく。
思い出したようにまた風が強くなった。
頭上の木々から大きな滴がばらばらと降り注ぎ、まだ傘を開いていなかった譲の眼鏡を濡らした。
笹の葉も激しく揺れた。
譲の短冊も笹と共に風の中で踊り、重ねて洗われた短冊には、墨がもうほとんど残っていなかった。
あなたが幸せでありますように。
雨に溶けた願いが、あの世界にまで届けばいいと、譲は風の行方を追った。
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