恋は駆け引き?

 喫茶店のドアを開けると、扉にかけられていたベルがカラコロと鳴った。
 その音と一緒に店にはいると、顔見知りになっているマスターが笑顔で迎えてくれた。
 待ち合わせかいという声にはいとうなずいて、あかりは空いていた席についた。すぐに水を持ってきてくれたマスターにケーキセットを注文すると、マスターが首を傾げた。
「待ち合わせなのに、先にそんなに食べてしまっていいのかい?」
「いいんです。約束の時間までまだ随分あるから」
 用事が早めに終わったので時間が余っちゃってと続けると、マスターも納得してくれたようだった。
 実際、約束の時間までかなりあった。歩き回るのがしんどくなったのでさっさとここに来てしまったのだが、さてどうやって時間をつぶそうか。

 選んだ席は窓際だった。出窓になっているので、鉢植えや写真など色々なものが飾られている。
 見るともなしにそれを見ていると、そこにそぐわないものを見つけた。女性向けのファッション雑誌が無造作に鉢植えの間に置かれている。
 不思議に思って手に取って見ていると、マスターがケーキと紅茶を持ってきた。そしてあかりの手にある雑誌を見て、お客さんが置いていったのだと教えてくれた。
「さっきまでいたお客さんが読んでいたんだけど、もういらないからって置いていったんだ」
 持ち歩くのが面倒だったんだろうね、と続けながらマスターはケーキと紅茶をあかりの前に並べた。
 せっかくだし店に置かせてもらおうと思ってと言うので、あかりはそれをマスターに渡そうとしたのだが、マスターは受け取らなかった。
「とりあえず、そこに置いておいて。なんだったら暇つぶしに使ってくれてもいいよ」
 そう言われたのであかりは雑誌を自分の手元に戻した。そして表紙に目を落とす。あかりは普段あまり雑誌を読まないのだが、確かに暇つぶしにはいいかもしれない。ヒカルが来るまでまだまだ待たなければならないし、ケーキと紅茶だけではもたないだろうから。

 とりあえずテーブルの上のケーキの皿を押しやって場所を作ると、あかりは雑誌をめくった。紅茶のカップは手元に残す。飲みながら読むのは行儀が悪いが、ケーキと違って後回しにしたら冷めてしまう。飲むときは読むのを中断して、こぼさないように気をつければいいだろう。
 通勤着の着回し方法とか、今後流行る髪型とか、人気の化粧品とか、写真をたくさん使った色鮮やかな記事が並んでいる。そうした内容に普段はそれほど関心がなかったが、見ていると結構面白かった。みんなこんなに工夫してるのかなあと、紅茶を飲みつつページをめくる。
 ぺらりぺらりと、読むのではなく眺めてるだけだったあかりの手がふと止まった。
 女性向け雑誌というだけあって、ファッション誌ではあったが、恋愛に関する記事にもたくさんのページが割かれている。この雑誌は「プロポーズ特集」が組まれていた。言われたいプロポーズの言葉ランキング、プロポーズの実例、理想のプロポーズ場所等々、アンケートを元に様々なデータが並んでいる。
 あかりもいわゆる「お年頃」の女の子として、また「彼氏持ち」として興味がわいた。特に目をひかれたのは「実例集」だ。
 世の男性のほとんどは彼女の「OK」の返事を前提にプロポーズをするのだと記事にある。しかし成功を確信していても、あるいはしているからこそなのか、涙ぐましいほどの努力と工夫の数々が並んでいて、あかりは驚いた。花束やケーキなどプレゼントを用意するぐらいのことはするんだろうなとあかりもそれくらいは漠然と考えていたが、それもただ渡すだけでは駄目らしい。チョコの箱に指輪を入れて中味がわからないようにするとか、遊園地の観覧車の中でとか、とにかく恋人を驚かすために知恵をしぼったのだと体験者は語っている。
 また、女性側もただ待っているだけではいけないのだそうだ。プロポーズをしたくなるよう彼氏を誘導するテクニックがいるらしい。指輪のサイズをさりげなく伝えるとか、ロマンチックな場所に誘ってムードを作ってあげるとか、あるいはお金が貯まっているから経済的な心配はないと安心させてあげるなんてのもある。はたまたプロポーズを待つのではなく自分からしたという強者も少なくはないらしい。
 さっきの通勤着特集ではないが、「みんなこんなに工夫してるんだなあ」となんというかそう、しみじみと感じ入ってしまう。
 まるで古典の訳文のような感慨を抱きながらふと見れば、紅茶が残り少なくなっていた。あかりはケーキの皿を引き寄せると、ひとまず広げたままの雑誌をテーブルの上に置いた。ケーキや紅茶で汚さないように少し遠い位置に押しやってから、フォークをとりあげてケーキを口に運ぶ。そうしてあかりはさっきの記事を我が身に引き寄せてみた。


 あかりの歳の数だけバラの花を抱えて高級レストランまでエスコートし、最後のデザートに指輪を仕込んでおくヒカル――――あやうく吹き出しそうになった。プレゼントや高級ディナーは定番の演出らしいが、ちょっと無理があるようだ。
 定期積立で○百万貯め、その予算内で立てた結婚式の計画書を前にヒカルにプロポーズを迫るあかり――――貯蓄はないこともないが、お金なら多分ヒカルの方が持っている。それになにより自分たちの柄ではないと思う。

 やっぱりいざ自分のこととなると難しいものだ。他の人たちも行動に移すまでには散々頭を悩ませたと言っているし。
 最後の一口を飲み込むとちょうど入り口のベルが鳴った。顔を向けるとヒカルが入ってきたところだった。腕時計を確認すれば、そろそろ約束の時間になるころだった。今日のヒカルは優秀だ。遅刻せずにちゃんと来た。偉い偉いと思いながらも、いつの間にそんなに時間が経ったのかとあかりは少し驚いた。雑誌は暇つぶしとして充分すぎるほど役に立ったようだ。
「わり、待たせたか?」
 マスターに手を挙げて挨拶するとヒカルはまっすぐあかりの所に来て軽く謝った。空になった紅茶のカップとケーキの皿に気づいたらしい。
「ううん。私が早く来ちゃっただけだよ」
「そっか?」
 あかりが首を振るとヒカルは安心したように笑った。遅刻の常習犯で毎度毎度あかりを待たせていることに、罪悪感は持っているらしい。
 だったらもう少し遅刻を減らしてくれればいいのになあ。
 そうは思うものの、今日はちゃんと来たのだからお小言は控えることにした。
「なんだこれ?」
 ヒカルはあかりの前の席に座ろうとして、あかりが広げたままにしていた雑誌に気づいた。あかりが何かを口に出すより早く、雑誌を取り上げて目を通す。そして椅子に腰を落ち着けるともう一度なんだこれと言った。
「プロポーズ特集?」
「前にここに座ってたお客さんが置いていったんだって。暇つぶしに読んでたの」
 あかりが短く説明すると、ヒカルも短くふーんと言った。
「……バラとかぬいぐるみとか宝石とか、みんなこんなことやってんのか?」
 そのまま記事を読んでいったらしく、ヒカルは顔をしかめながら呆れと困惑の入り交じった口調で感想めいたものを口にした。
「みんな頑張ってるよね」
 あかりは苦笑して見せた。完全に他人事といった調子を作ったのはもちろんわざとだ。
「でも、この人たちはこたつでみかんを食べながらって書いてあるし、人それぞれみたいだよ」
「あー、……だな」
 その箇所を指で示しながらあかりが言うと、ヒカルもそこを読んで答え、雑誌を閉じて出窓の端に置いた。
 では、予定通りのデートに向かいますかと二人して立ち上がる。マスターにごちそうさまを言って、並んでドアをくぐるとまたベルがカラコロと鳴った。

 軽く乾いたこのベルの音があかりは結構好きだった。鳴りやむまで背中で聞いていると、あかりの口元は自然に笑顔になる。ヒカルはそんなあかりを不思議そうに見下ろした。何にやにやしてるんだかと思われているのは承知で、それでも笑顔を消さずににこにこ歩いていると、不意にヒカルが改まった調子で口を開いた。
「あのさ」
「何?」
 見上げると、ヒカルはあかりを見ていなかった。そっぽを向いた姿勢のままでヒカルは続けた。

「あんまり期待しないで待ってろよな」

 えぇ?と反射的に間抜けな声がもれそうになって、あかりはあわてて口を押さえた。何を待ってろと言われたのか、ちゃんとあかりはわかっている。それなのにそんな反応はあんまりだ。
 口を押さえたまま、ふうと一つ深呼吸をして、あかりはにっこり笑ってみせた。ヒカルはまだこっちを見ていないけれど、でもちゃんと見ているとわかっていたから。そして笑顔のままあかりは強気に答えてみた。
「思いっきり期待して、待ってるね」
「バーカ」
 ヒカルから戻ってきた言葉はそんなものだったけれど、声は怒っていなかったのであかりはヒカルに飛び付いて、ヒカルの腕に自分の腕をからませた。またバーカと優しい声が降ってきたので、どうせバカですよーとすねた返事を返しておいた。

 からめた腕の下で手をつないで歩きながら、あかりはふと思った。
 ひょっとしてこれって、「プロポーズを誘導するテクニック」になるのだろうか。
 体験者になれたら実例として雑誌に投稿するのもいいかもしれないなんて、そんなことを考えながらあかりは喫茶店のベルの音を思い出していた。

 

終わり

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