サイン:署名・合図

 胸に抱えた色紙は2枚。
 倉の一字が書かれたものと、真っ白なまだ何も書かれていないもの。

 軽く息をはずませて、あかりはよく知っている道を、よく知っている幼なじみに会うために急いでいた。
 さっき訪ねた彼の家に、幼なじみはいなかった。祖父に呼ばれ出かけたのだと、彼の母親が教えてくれた。
 せっかく来てくれたのにごめんなさいねという言葉にぺこんと頭をさげて、あかりは幼なじみを追いかけた。
 今日、会えなかったら、次はいつになるかわからないもの。
 スカートのすそがはねるのにもかまわず、あかりは少しずつ速度をあげる。
 小さい頃から知っている幼なじみは、近頃ずいぶん忙しくしている。それは、中学のときから始まった彼の仕事のためなのだが、最近では長く家を空けることもめずらしくない。あかりはもうずいぶんと長く、彼と会っていなかった。
 彼が休みで、あかりも学校が無くて。こんな日は次がいつになるのかわからない。このチャンスを逃すわけにはいかない。 彼が祖父の家にいるうちにつかまえなくてはと、あかりは一度足を止め、大きく息を吸い込んで乱れてきた呼吸を整えると、今度は本格的に走り出した。

 幼なじみの祖父の家は、彼と一緒に何度も訪れたことがある。実の孫である彼と同様、もしかしたらそれ以上にあかりのこともかわいがってくれた人の家は、だからあかりにとっても敷居の高いものではない。門をくぐって、半分開きっぱなしになっていた玄関に声をかける。
「こんにちは。ヒカル、いますか?」
「んー? あかりー?」
 庭のほうから、尋ね人の声がして、あかりは間に合ったことに安心して息をついた。
 まもなく足音がして、彼の祖父が顔を出し、あかりを見て顔をほころばせた。
「いらっしゃい。久しぶりだね、あかりちゃん」
 優しい声に、あかりも笑顔を返す。
「こんにちは。ご無沙汰しています」
 幼い頃から知っている少女の、すっかり大人びた挨拶に目を細めて、その人は孫のいるほうを顔で示した。
「ヒカルなら、縁側にいるから、庭から回ってもらったほうが近いんじゃないかな」
「そうします」
 こくりとうなずいて、あかりは勧めどおりに庭から回った。
「おう、あかり。どうしたんだよ」
 探していた幼なじみは、よく日の当たっている縁側で、庭に足を投げ出すようにして座っている。そうして彼はあかりにむかってひらひらと手をふってみせた。
 そんな幼なじみの周りの様子に、あかりはもともと大きな目をさらにすこし見開いた。
「どうしたの、それ」
 縁側には、さっきまで二人で打っていたらしい碁盤と碁石。そしてその横には、真っ白な色紙がうずたかく積み上げられていた。10枚や20枚ではないその量に、あかりの口まで開いてしまう。
「それがさ、聞いてくれよあかり」
 あかりの驚きが何によるものなのか、察するまでも無いと、ヒカルはうんざりした声を出した。
「近所に配るから、オレにサインしろって言うんだぜ」
 まったく冗談じゃないよな、と大きなため息をついてみせる。
 心の底から冗談じゃないというその様子に、あかりは思わず、大事に持ってきた2枚の色紙を背中に隠した。
「何が冗談じゃないだ」
 玄関からもどってきた彼の祖父が、ヒカルの背中に立ったまま、説教をするときの口調で話し出した。
「みなさん、いつもお前のことを応援してくださっているんだぞ。サインくらいしてもいいだろうが」
「オレに勝手に約束すんなよな。だいだいなんだよこの量」
「それだけたくさんの人が応援してくれているということだ。ありがたいだろうが」
「あのなあ」
 がっくり、と首を前に倒して、ヒカルはまた大きなため息をついた。
 目の前で言い争いをしている二人を見ながら、あかりは背中で色紙を握っている手に力をこめて、きゅとくちびるをかんだ。
 サインなんてしたことが無いと、そう聞いたのはついこの間のような気がするのに、いつの間にこんなふうになっていたんだろう。
 ヒカルががんばっていることは、活躍していることは、ちゃんとわかっていたけれど。
 色紙なんて、持ってくるんじゃなかったな。
 あかりは、ヒカルには気付かれないように、小さくため息をついた。
「あかり? 立ってないでおまえも座れよ」
 祖父との言い争いが一段落つくと、ヒカルはあかりのほうを見て、自分の隣をぽんぽんとたたいて座るように促した。
「ああ、あかりちゃんすまないね。何か飲み物でも持ってこよう」
「あ、おかまいなく」
 家の中に入っていく背中に返事をして、あかりは色紙をヒカルから隠しながら彼の隣に腰を下ろした。
 しかし、薄くてかさばらないものとはいえ、隣にいる人の目から隠すには、色紙はずいぶんと大きすぎた。何より不自然なあかりの様子に、ヒカルがすぐに気付いた。
「あかり? おまえ、何持ってんだ?」
「あ、え? これ?」
 なんでもないというには目立ちすぎる色紙を恨めしく思いながら、あかりは仕方なく、倉の一字が書かれたほうの色紙をヒカルに渡した。
「ヒカル、この間倉田さんに勝ったでしょ? だから」
 渡された色紙に、ヒカルの目がさっきのあかりのように大きく開く。
「あー。コレ、どこ行ったかと思ってたんだよなー。あかりが持ってたのか」
「ご、ごめんね。間違えて持って帰ったとき、すぐ返せばよかったんだけど…」
 あわてて謝るあかりに、ヒカルは笑って手を振った。
「いや、いーって。いーって。オレが持ってても、どうせなくすと思ったんだろ?」
 そのとおりだ、と言ってもいいものだろうか。赤くなって黙ってしまったあかりに、ヒカルは今度は声をあげて笑った。
「だから、いーって。そのとおりだし。サンキューあかり。助かった」
 これで倉田さんに会っても逃げ回らなくてすむぜと続けたヒカルに、あかりの表情もゆるんだ。
 が、さらに続いたヒカルの言葉に、またすぐひきつる。
「そっちのは?」
 一枚になっても、隠しづらいことに変わりはない。もう一枚持ってきたほうの色紙もヒカルに見つかってしまって、あかりはあたふたと言い訳を考える。
「え、えーとこれは、その」
 うそや言い訳と普段縁の無いあかりがあわてている間に、ヒカルはさっさとあかりの背中に隠れている色紙を手にとった。
「何にも書いて無いじゃん」
 ヒカルに、書いてもらおうと思ったの。
 太陽に透かすようにして色紙を見ているヒカルに、あかりはそう言うことができず、小さくなって下を向いた。
 ヒカルの向こうに積み上げられている真っ白な色紙が、そう言うことをためらわせる。
「なあ、これ使わねーの?」
 色紙をあかりの目の前で振ってみせながらヒカルが訊く。
 あかりはただ小さくうなずいた。
「そっか、じゃあ、オレがもらってもいーか?」
 もう一度、同じようにうなずく。
 そうしてうなずいたそのすぐ後に、あかりは、色紙を一体どうするんだろうと、不思議に思って顔を上げた。
 すると上げた視線の先で、ヒカルが色紙に、恐らく彼の祖父が用意したのであろうペンを走らせていた。
 なにやら書きあがった色紙を眺めて、ヒカルがよし、と満足そうにつぶやく。そして、首をかしげてヒカルを見ているあかりにその色紙を差し出した。
 無言で差し出された色紙をとりあえず受け取る。首をかしげたまま見ると、相変わらずなヒカルの字で彼の名前が書いてあった。
 あかりへ、と書かれた色紙から勢いよく顔を上げる。ヒカルを見ると、彼はあさってのほうを向いていた。
「ヒカル?」
 そっと声をかけると、顔はあさってのほうを向いたままで、少し大きめの声が返ってきた。
「オレさ、一番最初のサインは、あかりにやるって決めてたんだ」
 思いもよらない言葉に、あかりの色紙を持つ手に力がこもる。
「だってさ、最初のサインがあんなプリントの切れ端なんて、かっこ悪いだろ?」
 な、と言葉だけあかりに向けて、顔はやっぱりあさってのほうを向いたまま、ヒカルは縁側から投げ出した足をぶらぶらさせている。
 その耳が真っ赤になっていることに気付いて、あかりは色紙を胸に抱きしめた。胸に抱いた色紙から、なんだかとても暖かいものが体の中に流れ込んできて、あかりは大声で叫びたいような、思い切り笑いたいような、そんな衝動を抑えるのに苦労した。
 ひとしきりそんな衝動に耐えた後で、自分の口からでた言葉は、きっとさっきのヒカルの声よりずっと大きかったと思う。
 でも、うれしかったから。とてもとてもうれしかったから。
 だから。
「ありがとう! ヒカル」
 あかりの声の大きさに驚いたように、ヒカルはようやくあかりのほうを向いた。そうして、二人はそれぞれの一番の笑顔をお互いに贈った。

 これ以上サインをしろと言われないうちに逃げるぞとそう言うから、挨拶もそこそこに、連れ立って歩いた帰り道。前にやったサインは捨てろよと、そうヒカルは言ったのだけど。
 その前には倉田プロの色紙が飾ってあった場所に、ヒカルの色紙を置いて、あかりはにっこりと笑う。 並んだ二つの字は、ほんの少しだけど変わっていて、それがあかりに優しい微笑を運ぶ。
 いいよね。大事にするって約束したし。
 両方持っていても、いいよね、ヒカル。
 ずっと、ずっと、大事にするからと、あかりは遠い未来を幼なじみに約束した。

終わり

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