第四章 螺旋

 

 雪はとうにやんでいた。
 知らせを受けて戻った屋敷の主人は自分の部屋の窓から庭を見下ろした。
 その時、庭の雪は赤く染まっていたというが、有能な彼の使用人達の手によって見事なまでに片付けられ、庭にはもうなんの痕跡もない。すでに夜中に近い時刻ではあったが、屋敷の灯りを受けた庭にはただ白い世界があった。
 とはいえ、優秀な使用人がいなかったとしても痕跡は残っていなかったに違いない。知らせを受けてから彼が戻るまでに三日以上もの時が経過していたからだ。
 それを聞かされた時、彼は屋敷から遠く離れた別荘に一人いた。仕事ではない。特に目的のないあえていうならば気晴らしのための滞在。
 主不在の屋敷に何者かの襲撃があったというその報告を受けた時、彼が尋ねたのはただ一つきり。
「神子は無事か」と。
 怪我一つないとの答えを確認すると彼はうなずき、それきり興味を失った。続いて息子をかばった彼の妻が命を落としたと聞かされても、犯人として彼の娘を産んだ女が捕らえられたと聞かされても、彼は眉一つ動かさず予定していた期間を別荘で過ごした。
 たとえ早く戻ったところでやることなどない。死んだ妻の葬儀は屋敷の女主人にふさわしいように執事が取り仕きるだろう。元々神託による結婚で、彼は妻の名も顔もろくに覚えてはいない。死に顔を見ておく必要などどこにもなかった。
 捕らえられたという女にはそれ以上にしてやることはなかった。妻とは違ってその女にはかつて愛情らしきものを抱いたこともあった。妻との結婚前から、結婚後も関係を続け、妻よりずっと長く深い時間を共にし娘も生まれた。しかし、娘なら使い出もあるからという回りの言葉に従って娘を取り上げて以来、女は会うたびに泣き喚くようになり彼の足は自然遠のいた。
 その後一人になった女が何を思いどうしてこのようなことを実行するに至ったか、それはたやすく想像がついたが、それでも彼の心は動かなかった。
 そもそも彼の自由にできることなど少ないのだ。娘を女の元へ返してやれば女の気は済んだかもしれないが、そうすれば他の誰かが口を出してきただろう。仮にも彼の血をひく娘を外で育てるなどとんでもないとか、家格や血統を軽んじるものではないとか、そういうくだらないことを。どちらにしろわずらわしいことに変わりはない。それならば嫌でもつきあわなければならない回りの連中と、遠ざければすむ女と、どちらの言い分を優先するかなどわかりきったことだった。
 それによって女はずいぶんと大それたことを企んだわけだが、結果的に神子は生きているのだから問題ない。妻がかばったということだが、用なしだと思っていた女も最期には役に立ったということか。
 彼は手にしていたワインのグラスに口をつけた。先ほど彼の息子である神子を連れて来た執事が置いて行ったものだ。
『ずいぶんとショックを受けておられますので』
 だから会ってやれと言われ、一応ここに呼んだのだが、彼にはそれが意味のあることとは思えなかった。生きているならそれでいいのだ。
 実際、二人が交わした言葉は少なかった。お久しぶりですと頭を下げる息子に彼がうなずいただけだ。
 ショックを受けていると聞かされたところで彼にそれがわかるわけはないのだ。年に数回会うか会わないかの息子。今回も数ヶ月振りの再会だった。もう赤ん坊ではないから成長しているのだなと、彼にわかるのはそれくらいだ。
 ただ。
 口にワインの香りを含みながら、彼はその時感じたかすかな違和感に眉をひそめた。
 こんな顔をしていただろうか。
 と、その時彼はそう思ったのだった。顔など元々ろくに覚えてはいなかったのだが、口を引き結んで自分を見上げるその顔に、違和感があった。いや、違和感ではない。こんな顔をしていただろうかとそう思ったのだが、あれは違和感ではない。
 あれは、そう。既視感だ。
 見たことがあると、思ったのだ。見覚えがあると。いつもろくに思い出せない思い出そうともしないその顔が、見たことのあるものに良く似ているとその時確かに思ったのだが、それは何だったろうか。
 風が強くなってきたようだ。窓が高く音をたてた。再び外へ目をやると黒い空に風にあおられた雪が舞っていた。
 ここは王都メルトキオ。深夜でもあちこちの屋敷と王城には灯りがともり、暗いはずの夜空に舞う雪は光をうけて輝く。天から降るのではなく、すでに地上に落ちた雪が風に吹かれる様はどこか滑稽だった。風の吹くまま雪の粒が進む方向は一定ではない。右から左へ行くもの、左から右へ行くもの、上から下へ、下から上へ。定まらぬ雪の行方に彼は視線をさまよわせた。
 ふと、雪を追って窓を見ていた彼の目が細まった。数瞬窓を凝視したそののどの奥からくつくつと低く笑いがもれる。
 暗い外と明るい部屋。窓のガラスには室内の様子と彼がはっきりと映っている。そこに先ほどの答えがあった。
 見たことがあると感じるはずだ。さっき対面した息子の顔は、今窓に映る彼の顔に嫌というほどよく似ていた。
 親子だから、ではない。これは「神子」の顔だ。
 神子として生まれ、神子としての枠の中で生きることを義務付けられた者の顔。たとえ神子であることを疎ましく思っても、神子の枠から出る術を持たぬ者の顔。
 数時間前に自分を見上げた青い光を思い出す。
 そう、あの目だ。神子である自分に絶望しながらも、神子でない自分になどもうなれないことを思い知っている目。それこそがこのテセアラの神子の証だと、彼は笑った。
 なるほど、子供とは親の知らぬ間に成長するものだ。
 彼の息子は彼の手を借りることなく、確かに神子にふさわしく育っていたようだ。
 次代の神子を生み出すことだけがテセアラの神子の役目であり使命であり存在意義。
 ではもう、自分はいらぬな?
 確かな次代の神子がいるのだから。
 窓に映る彼自身に向かって、彼は薄く薄く笑った。


 母の命を奪った女の命もまた失われた日、屋敷に響いた銃声によって、ゼロス=ワイルダーはワイルダー家の当主の座に、また当代の神子の座についた。

終わり

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