第三章 雪と思い出

 

 雪が降っていた。
 窓から見える一面の銀世界にはしゃいだ少年は外に出たいと母親にせがみ、せがまれた母親は軽く首をかしげた。
 ここ数日吹き荒れた木枯らしのせいで少年はずっと外で遊んでいなかった。それに普段の遊び相手である妹が寒さに弱く、一月ほど前から暖かい別荘地で療養していたので、少年は退屈しきっていたのだ。
 外へ行こうと繰り返す少年の言葉に、彼女は少し考えた後でうなずいた。雪はもうほとんどやんでいたし、今日は風も強くはない。少しくらいなら外に出るのもいいだろう。
 風邪をひくのではという使用人の言葉に彼女は首を振り、外に出る支度をするよう命じた。あるいは彼女も雪に誘われて多少はしゃいでいたのかもしれない。
 庭に出るとやはり雪はもうやんでいたが、少年は早速あちこちに足跡をつけてまわった。時々雪をすくっては空へと放り投げ、それを自分の上に降らせては楽しそうに笑う。
 子供というのは、何も持たなくても今そこにあるものの中に楽しみを見出すことができるものだ。はずんだ少年の様子に彼女はわずかに微笑した。
 かつて自分にも雪が降るたびに外へ飛び出していた頃があった。今目の前ではしゃぐ少年のように、ただそこに雪があるだけで嬉しくて笑い転げていた頃が。雪を固めたり、投げつけあったりして一緒に遊んだ友達の顔はもう思い出せない。もう少し大人になった雪の夜、寒さに身を寄せ合って微笑みあった人も、今はもう遠い。雪を見てぬくもりを感じていた頃もあったのだということが自分でも信じ難くなるほどに、本当に何もかも遠くなってしまった。
 彼女はそっと雪をすくうとそれを固め始めた。ある程度大きくなると、その場にかがんで足元に置き、さらに形を整えていく。彼女の手よりも少し大きいくらいのなだらかなやや細長い丘ができると、彼女は首を回して庭木を見た。数瞬視線をさまよわせて手ごろなものを探す。気に入ったものが見つかると彼女は少し歩いて、冬の中でも鮮やかな緑を保った葉を二枚つみ、雪の丘の端にそれをさした。
「母様、それは?」
 彼女の作業に気づいた少年がいつのまにか彼女の側にしゃがみこみ、不思議そうに彼女の作品を見ていた。
「雪ウサギよ」
「雪ウサギ?」
 初めて見る雪ウサギに、少年は大きな目をくるりと回した。もうずいぶん大きくなったような気がしていたが、そんな表情はまだまだあどけない。
「母様が子供のときに良く作ったの」
 そう言う自分の声が、ひどく穏やかなことに彼女は驚いたが、口に浮かんだ微笑を消そうとは思わなかった。興味津々という息子の様子の頭をなでながら、その問いに答えていく。
「これが、耳ですか?」
「そうよ」
「じゃあ、目は?」
 自分を見上げる息子の言葉に彼女は困った。もちろん雪ウサギは目もつけるものなのだが、適当な小石も木ノ実もみつからなかったのだ。
 ふと思いついて彼女は耳を飾っていた宝石をはずし、それを雪ウサギにはめこんだ。
「これで、完成」
 白い体に緑の耳をした雪のウサギが、きらきらした青い瞳で二人を見ていた。
「あなたと同じ目ね」
 その瞳をのぞきこんでそんなふうに言ってやると、同じ色の瞳をした彼女の息子は雪の上で飛び跳ねた。
 それを見た彼女は声をあげて笑い、少年も笑いながら庭中を跳び回った。
 ひとしきり跳ねた後で、少年は母親の作った雪ウサギの隣に自分も雪を固め始めた。そうしてやや小さい体ができると、耳に使う葉を取りに近くの庭木まで駆けていく。
 その背を見送った彼女は小さく身震いをした。気がつけば、いつのまにかまた雪が降り出していた。体も随分と冷たくなっている。風邪をひかぬ内に部屋に入らなければ。
 呼び戻そうと子供を捜した彼女の体が凍った。
 彼女の瞳に映ったのは、立ちすくむ息子の姿。その前に立つ黒い人影がかざした手に力ある光りが集まるのを感じて息を呑む。
「死ね! 神子!」
「ゼロス!」
 叫ぶより先に走り出していた。腕を伸ばしてその体をひきよせ、背中に庇う。
 次の瞬間、衝撃とともに彼女の視界は暗くなった。

「母様、母様!」
 自分を呼ぶ声と、辺りを行きかう大勢の人の気配で、ようよう彼女は目を開けた。
 それでも普段より暗い視界に、彼女は視線をさまよわせる。そうしてようやく鮮やかな赤い髪と明るい青い瞳を認め、彼女はかすかに微笑んだ。
 よかった、無事だった。
 が、安堵したのは一瞬。ほっと息をつくより速く、彼女を灼熱のような痛みが襲った。体がひきさかれるような感覚にうめき、全身が沸騰するような熱にあえぐ。胸のうちをせりあがってきたものに耐えきれずせきこめば、血の塊がこぼれ雪の上ではじけた。
「母様!」
 胸に突き刺さるような悲鳴を感じながら彼女は理解する。
 自分は死ぬのだ。
 これでもう終わりなのだ。
 このまま血に沈んで、自分は死ぬのだ。
『死ね! 神子!』
 魔法で自分の体を焼いた相手の声が蘇る。
 神子、と言っていた。狙われたのは神子。神子であって、自分では、なかった、のに。
「母様、母様」
 小さい手が彼女をゆすり、傷だらけの体が悲鳴をあげる。遠のいていく感覚の中で、ただ、自分を呼ぶ声だけは届いた。
 必死に自分を呼ぶ少年の声。命を狙われた神子の声。
 結局、神子なのか。自分の一生は全てが、神子の……。
 目の前で泣きじゃくる子供へと彼女は腕を伸ばそうとしたのだが、ただ血があふれるばかりでそれは全く彼女の言うことをきかなかった。
 雪が流れ出る血を吸い上げる。赤い雪は庭中に広がり、もう動けない彼女の中ではすでに苦痛すら治まりつつあった。
 全てが失われていく代わりに満ちてくるのは無念と恐怖。押し寄せるそれが彼女の内を荒れ狂い、彼女の精神と理性とを侵していく。 
 夢見たものを手放したまま、こんなところでこんなふうに死ななければならないのか。何もかもなくして何一つ取り戻せないまま、血にまみれて一人で死ぬのか。神子のために全てをあきらめた自分は、神子のために命まで手放さなければならないというのか。
 最後まで、本当に最期まで、神子のせいなのか。
 それならば、ああ、それならば。

「おまえなんか生まなければよかった」

 こぼれた言葉。しかし、彼女には自分が何を言ったのか理解する時間すらもう残ってはいなかった。その言葉を受け止めた息子の瞳にどんな色が浮かんだのかも、光を失った彼女の瞳にはもう映らなかった。
 その一言を遺して、彼女が満足したのか、後悔したのか、それは彼女自身にすらわからないままだった。


 雪が降っていた。
 青い目をした雪ウサギは赤く染まっていた。

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