第二章 トロイメライ

 

 暖炉で炎のはぜる音がする。
 暖炉の前に置かれたソファの上では、女が一人、針を動かしていた。
 夕食後の家族団らんにふさわしい今の時間にこの部屋を満たすのは、炎のはぜる音と女の動かす針の音。そしてかすかな女の呼吸の音だけ。
 ひそやかな部屋で女はひたすら刺繍を続けていた。
 女の手にあるのは小さな部屋履き。上等の柔らかい絹でできたそれも、女の手が縫い上げたものだった。淡い紫のそれはすでにレースで飾られ、最後の仕上げの刺繍が終われば、それはそれは愛らしい出来になると思われた。
 女自身が使うには可愛らしすぎる大きさと装飾の部屋履きは、むろんその女のものではなく、女は娘のために無心に針を使っているのだった。
 この部屋履きの前には、雪遊びに使えるようにと手袋を編み上げていた。その前には帽子とマフラーを。女の娘はまだ幼くて、寒い時期に外へ出そうとすれば、どれほど暖かくしてもしすぎるということはない。そう思ってその前には外套をしつらえていた。
 そして今は部屋履きを仕上げている。さすがにここまで寒くなっては、外遊びはさせられない。かといって幼い子供にずっと部屋にいろというのは酷というもの。だからせめて部屋の中で少しでも心楽しく過ごせるように、春らしい色合いの生地を使って、花の刺繍を施した部屋履きを作ってやろうと思ったのだ。
「つっ」
 夢中になりすぎたからだろうか。慣れたはずの針仕事、あと少しで仕上がるというところで女は自分の指に針を刺してしまった。
 指先に丸く血が盛り上がる。あっと思ったときにはそれは、仕上がる寸前であった刺繍の上にこぼれ落ちた。
 白い糸で縫い上げていた花弁が赤く染まる。
 ああ、とため息をつく。血の染みは取れにくい。高価な絹で作ったこれを水に長くつけておけるはずもなく、この部屋履きを娘に贈るのはあきらめなくてはならないだろう。
 そこまで考えた女の口の端があがった。ゆがんだそこから音がもれる。
 最初は小さかったそれは、徐々に高くなり、やがて部屋中に響き渡った。
 高く、大きく、女は嘲笑っていた。
 娘に贈るのはあきらめなくてはならない。
 なんと馬鹿なことを考えたものか。あきらめるもなにも、女は自分の作ったものを娘に贈ったことなどないというのに。ただの一度もだ。
 今までに作ったものは全て、娘のための部屋に積み上げられている。娘が生まれる前に編んだ小さな靴下も、娘の体を包むはずだったおくるみも。娘のために用意したおむつやおもちゃ、娘のために女が今まで作り、そろえ続けてきたありとあらゆるものは、一度も使われないままただその数を増やし続けていた。
 この部屋履きだって、たとえ娘の手に渡すことができたとしても、ちゃんと使えるかどうか怪しいものだった。女は娘が今どれほど大きくなっているのか知らなかったからだ。
 女が知らないのはそれだけではない。
 娘の顔も知らない。髪の色や目の色すら知らない。一度も抱かせてもらえなかったからだ。
 抱けば情が移るだろうと、ほんの一目顔を見ることすら許されずに取り上げられた我が子。ついた名前すら教えてはもらえなかった。どうせ会えないのだからと。
 抱けば情が移るなど、愚かしい言いぐさだ。抱かなければ情がわかないとでも言うのか。十月以上もの間、この体の内で育て上げた我が子に、見なかったからといって、抱かなかったからといって、何も知らされないからといって、情がわかないとでも言うのか。
 なら、今、この身を焼く思いはなんだというのか。
 女は体を震わせて嘲笑い続けた。
 女が娘について知っているのは一つだけだった。
 それは、今、娘が父親の屋敷で養育されているということ。
 娘の父親は大貴族で、しかもこの世界では王家や教皇より権威のある立場にあった。それゆえに、その結婚は男の意志ではないものによって定められ、愛し合っていたはずの男の妻に女はなれなかった。
 それでもいいと初めは思っていた。男の立場は特別すぎて、妻の座など最初から女は望んでいなかったからだ。妻にはなれなくても、その愛情は変わらず自分の元にあるとそう信じていられたし、実際、愛した人は妻となった女よりも、自分の側に長くいてくれたから、女はそれで幸せだと感じていられた。
 あの時、娘を取り上げられたその時までは。
 この世界に一人しかいない、特別な人を愛してしまったから、普通に結婚して普通に暮らす幸せは望めないことなどわかっていた。けれど、二人の愛情の証まであきらめなければならないとは思ってもみなかった。
 貴族としてのしきたりだと言われても納得はできなかった。貴族の家で貴族として成長し貴族としての結婚をするほうが、娘のためだと言われてもあきらめきれなかった。
 自分はすでにたくさんのものをあきらめてきた。なのに、なぜ娘までもあきらめなければならない。
 嘲笑い続ける女の声が響きわたるこの家には、もうずっと長い間この女しかいなかった。
 女の愛した男も訪ねてこなくなってずいぶんになる。
 顔を合わせるたびに、娘を返せと泣きわめく自分が疎ましくなったのだと、女にはわかっていた。娘がいたことなど忘れて笑顔で迎えるようにしていれば、今も共にいてくれたのだろうが、それはできないことだった。
 なおも肩を震わせたまま、女は部屋履きを暖炉に投げ入れた。薄い布地でできたそれは一瞬で燃え上がる。
 あとかたもなく燃え尽きたそれに、女はなんの未練も感じなかった。燃えた部屋履きと、燃えずに部屋に積まれた他のものと何が違うというのか。結局どれも娘の元には届かないのだ。
 それら全てを与えるはずだった娘は今、父親の屋敷であの人の妻とその息子と共にいるという。
 妻!
 なんということだろうか。自分があきらめたその座についた女は当然のようにその息子と共にあり、その上自分の娘までその側に置いている。
 自分は一人で、ただ一人で、こんなところで娘の顔も名も知ることなくいるというのに、自分は何もかもをあきらめさせられているというのに、ただ神託に選ばれたというだけで、全てを手にする女がいる。
 なぜ、自分では駄目なのか。
 なぜ、自分が手にしてはいけないのか。
 あの人も、娘も、何かもを望むことの、何が悪いというのか。
 女はもう嘲笑っていなかった。噛みしめた口元からぎり、と低い音が響き、握りしめた指の隙間から血がしたたった。爪が傷つけた手のひらの痛みを、女は感じていなかった。


 娘のためにそろえ続けるものと共に、一人暮らす女の家を、ある日訪れる者があった。
 女が愛した人の足が遠のいてから何年ぶりかの見知らぬ客を、女は受け入れた。
 そして、望んでもいいのだとささやいた客の言葉をも、女は受け入れたのだった。

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