第一章 光さす庭

 

 庭に子供二人の笑い声が響いている。
 その庭に面したテラスに出されたテーブルには、屋敷の使用人達の手によって三人分のお茶の用意が整えられている。
 そして三つ置かれた椅子の一つに、この屋敷の女主人が座り、庭の様子を眺めていた。
 お茶とお菓子が並べ終えられてからもうずいぶんと時間が経っていたが、彼女は子供達を呼ぼうとはしなかった。二人とも外で遊ぶのは久しぶりなのだ。興がのっている子供を遊びから引き離すような真似は無粋とも、不憫とも思われた。
 庭で遊ぶ子供の内、少年は彼女の血を引く息子であり、その少年の後をついてまわっている少女は少年と血のつながった妹であった。体の弱い少女はつい先日まで熱のため床に伏せっていた。少女がベッドから離れられないでいる間、少年も妹のベッドの側から離れなかった。少女がようやく回復したので、今日は二人でしばらくぶりの外を満喫している。
 仲の良い兄妹。しかし、少女と、屋敷の主の妻である彼女の間に血の結びつきはない。
 少女はいわゆる「旦那様が外で産ませた子供」だった。
 そんな少女がこの屋敷に入ってきたとき、彼女は何も言わなかった。さらにそんな少女が自分の息子と共にあることを止めようともしなかった。むしろ、今日のように積極的に関わらせ、何の隔てなく扱っているように見える彼女の態度を、賞賛する声があることを彼女は知っていた。

 曰く、下賤の生まれであっても貴族のしきたりを理解する頭はあるらしい。
 曰く、神託があってこその自分の立場だと言うことをよくわきまえているようだ。
 曰く、相手の女への嫉妬を子供に向けぬ分別くらいはあると見える。
 曰く、取り乱せば旦那様に疎まれることくらいはわかるのだろう。
 等々。

 意識せずとも耳に入るそうした「褒め言葉」の数々は、むろん、彼女を楽しませはしなかった。しかし、といって彼女はそれを腹立たしいとも思わなかった。
 ただ、おかしかった。何もかも的はずれで馬鹿馬鹿しかった。
 彼女が少女を忌避しなかったのは、少女の存在が彼女にとってどうでもいいものでしかなかったからだ。少女がいてもいなくても、彼女は変わらない。だから自分の子ではない少女をこの屋敷で養育すると聞かされても、拒否する理由が彼女にはなかった。ただそれだけのこと。
「おにいさま、まって」
「そんなに走ると転んじゃうよ」
 少年と少女では幾分年の差がある。幼いなりに妹を気遣う少年と、そんな兄を慕う少女。庭を文字通り転がり回っている微笑ましい二人の様子に、彼女の表情がゆるんだ。それは回りを囲むたくさんの使用人の誰一人として気づかぬ程度のものだったけれど。
 そんな彼女が、少女を邪険にして夫の関心が離れることを恐れているのだという邪推は、さらに愚かしいものだった。
 そもそも離れるような夫の関心を、彼女は元々持っていなかった。夫が彼女に愛情や関心を持ったことは今まで一度もなく、これからもない。そんなことはこの屋敷に嫁いできたときから、いや、嫁ぐ前、夫と結婚しなければならないということが決まったときから、わかりきったことだった。第一、彼女も夫に関心など持ったことがない。だから夫が外にどれだけ女を作ろうが、また子供を作ろうが彼女の知ったことではない。
 少女を虐待して夫の不興をかったところで、彼女は痛くもかゆくもないのだ。
 だから別にいじめぬいてやってもいいのだが、そうする理由もないからしないだけの自分を、あれこれ品評する言葉の数々は、彼女に何の感慨ももたらさなかった。
 夫と結婚しなければならないと決まったときから、世界は彼女にとって無意味なものの集まりとなった。それまで抱いていた夢も希望も全て手放さなければならないと、そう定められてから、彼女の心を動かすものは一つしかなかった。称賛も蔑みも、夫と他の女の間にできた子も、彼女にとっては道ばたの小石ほどにも思えない、ただのがらくたの集まりでしかない。
 彼女がそんな世界で生きなければならなくなったのは、その理由は全て。
「母様、これ」
 不意に自分にかかった声に彼女が視線を向けると、少年が誇らしげに手を差し出していた。
「なあに?」
「母様に差し上げます」
 差し出されたものを受け取る。それは庭に咲く花で編まれた小さな輪。大きさから察するに頭に載せればいいのだろう。
「私に?」
「はい」
 柔らかく首をかしげて訪ねると、少年は恥ずかしそうに笑ってうなずいた。幼い手で編まれたそれは、あちこち不揃いで不格好であったが、彼女は微笑んで受け取った。
「ありがとう。嬉しいわ」
 それを頭に載せてくれた母の様子に、少年の顔が輝いた。その少年の袖をさらに小さい手が引いた。
「おにいさま、わたしにも、つくって」
「作ってあげたら? こんなに素敵なんですもの」
 リトルレディーとレディーの言葉に、未来の紳士が逆らうはずはない。少年と少女はテーブルにつくことなく、また庭へと下りていく。
 それを見送りながら彼女は一度頭に載せた花冠をはずし、手の内に置くとしばらく眺めた。編まれた花の形を指でたどる。そしてゆっくりと両手をかけると、次の瞬間、彼女は一気にそれをひきちぎった。
 回りの使用人が息を呑む気配を感じたが、彼女は表情一つ変えなかった。
 とりどりの花びらが散る。砕けた彼女のかつての世界のように。
 かつては彼女も少女らしい夢と共に輝く世界に生きた。将来の希望も、今大事だと思えるものも、その両手にいっぱい抱えて生きていた。けれど、それらを全て手放さなければならなくなったのは、たった一つの神託のせいだった。
 この世界の繁栄を支える神子。次代のそれを産むためにもっともふさわしいのは当代の神子と彼女との婚姻であると。
 なぜ、自分でなければならなかったのか。神子を産む女はなぜ他の女ではいけなかったのか。
 神託の内容を告げられてからずっと、彼女の身を焼く問いは、今も熱を失ってはいなかった。
 神子を産むためだけに、自分はそれまで生きた世界を離れ、全てをあきらめなければならなかった。
「片づけて」
 一片の熱もこもらぬ声で命ずる。
 優秀な使用人の手で、少年の手で編まれた、さっきまで花冠だったものは全て片づけられた。もう何も残っていない。
 あの子さえいなければ、あの子が神子でさえなければ、自分は夢の続きを追えただろうか。夢を確かな幸せという形に編み上げて、その中で笑うことが出来ただろうか。
「ありがとう、おにいさま」
「あんまりさわると、壊れるよ」
 弾んだ声をあげて、二人の子供が戻ってきた。彼女は微笑んで二人を迎えた。
「もうすっかりお茶は冷めてしまったわよ?」
「だって…」
 何かを言おうとした少年の視線が彼女の頭で止まった。彼女はそれに気づくと、二人に椅子を勧めながら言った。
「壊したり汚したりしてはいけないから、片づけてもらったのよ。せっかくあなたが作ってくれたんですものね」
「壊れたらまた作ります」
「そう? ありがとう。いい子ね、大好きよ」
 怪訝そうにしていた少年の顔が母の言葉にそれは嬉しそうにほころんだ。
 有能な使用人ほど、どんな状況でも自分の感情は出さないものだ。この屋敷の使用人は例外なく一流だったので、そんなやりとりを聞いても何も言わなかった。しかし、それでも、にじみ出るものがある。
 使用人たちがどう思っているのか想像はついたが、やはり彼女は意に介したりはしなかった。

 いい子ね。
 大好きよ。

 その言葉に嘘などない。彼女にとって少年はかけがえのない息子だった。
 もう、彼しかいないのだ。彼女に価値を与えてくれるものは。
 神子を産むそのためだけにここに来た彼女は、少年を産んでその地位を確かなものにすることができた。神託通り、世界に望まれる子をこの世に産み出すことができたから。
 しかしそれは、もう彼女には何の役目も残っていないということでもある。もう彼女には誰も何も期待しない。この先は世界に望まれた少年が世界に望まれる神子となることだけが、彼女の価値を決めていく。
 この子がいなければ、もう自分には何の価値もない。
 ああそれに、もう彼しかいないのだ。彼女をただ見てくれる人は。
 彼女を「神子を産むための女」でも、「すでに神子を産んだ用済みの女」でもなく、ただ彼女自身を見てくれるのは、もうこの一対の青い瞳しか残っていないのだ。
 少年だけが、この世界で彼女に関心を寄せてくれていた。
「いい子ね、ゼロス」
 隣に座る少年の赤い髪をなでる。この子の成長だけが、色を無くした彼女の世界に起こる、唯一残された変化だった。
 
 あの子さえいなければ。
 この子が、いなければ。

 一見相反する二つの思いは矛盾なく彼女の胸に収まり、無意味と無関心に満たされた彼女の人生を支えていた。
 ただそれは、彼女の生涯を支えるにはあまりに細い柱であったけれど。

 二人の子供の笑い声が響く。それを見守る微笑みがある。
 そんな庭を照らす光は、そのとき確かに幸せの色を帯びていた。

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