言わない理由

 数多く並んだ中のそれに目がとまったのに、特に理由はない。

 二人で旅を続ける中、立ち寄ったこの街はずいぶんにぎやかだった。まだ戦争の傷痕が残るこの世界では、人がたくさんいるというただそれだけの光景が珍しい。しかも、そのたくさんの人は皆活気にあふれていた。
「なんか楽しそうだな」
 きょろきょろとあちこちに視線をとばしながらアルノーがもらした感想にうなずきながら、ラクウェルも辺りを見回す。通りに並ぶ露店とそこから飛ぶ呼び込みの声が、この街の活気を支えている。この街は物資と人が集まりやすい位置にあるようだ。そういえばここに来る途中にも、今時よく整備された街道に驚いたのだった。
 歩きながら露店の商品を見るともなしに見ていたラクウェルの足が止まった。
 その露店は装飾品を扱っていた。見たところ、それほど高価なものはない。貴婦人の胸を飾るより、街の青年が恋人に贈るのにふさわしいようなもの。
 数も種類も豊富に並べられたその中の、一つの指輪にラクウェルの視線がとまった。なんの装飾もない細い銀色の輪に、小指の爪ほどの石が載っている単純な作りのものだ。石もただつるりと丸く、カッティングなどはほどこされていない。何の変哲もないその指輪の石は翠の光をたたえていた。
「そこの綺麗なねえさん、気に入ったなら買っていってくれないか」
「あ、いや」
 そんなに長く見つめていただろうか。店主から声をかけられて、ラクウェルは軽くうろたえた。そうして、買おうとしたわけではないと言うのが少し遅れてしまったので。
「どうした? ラクウェル」
 ラクウェルが足を止めたことに一瞬気づかず、ほんの少し先に行きすぎてしまったアルノーが戻ってきて、ラクウェルの隣に並んでしまった。
「い、いや」
 店主とアルノーのどちらに先に答えればいいのか、迷ってまたラクウェルの口がうまく動かないうちに、男二人の間で会話が成立してしまう。
「これは、似合いの夫婦だ。どうだい、旦那。美人の奥さんに何か一つ買ってやったら」
「そうだなー」
 アルノーはのんびりと答え、あごに手をあてて装飾品の置かれた台をのぞきこむ。
「な、何を」
 誰が夫婦だ誰がとか、なんでお前は落ち着いているのだとか、胸の内で言葉はうずまくが、やはりラクウェルの口は動かない。
 狼狽しきりのラクウェルに気づかぬわけもないだろうに、アルノーは平然と会話を続ける。
「どれがいいだろうな」
「ああ、奥さんはこれを気に入ってくれたみたいだけどね」
 店主があの翠の指輪を手にしたのを見て、ラクウェルの心臓がはねた。
 それほどじっくり見た覚えはないのに、店主にはラクウェルの視線の先にあったものがすっかりばれてしまっていたらしい。さすがに商人とはあなどれないものだ。
「これか?」
 店主が示した指輪をアルノーがつまみあげる。
 しげしげとそれをアルノーが見つめる様子に、何故だかラクウェルは頬がほてって仕方がなかった。
 今日はよく晴れている。アルノーの手の中で日の光を受けて輝く翠の石に、ラクウェルの鼓動が速くなる。ふーんとアルノーの口から息がもれるのにすら血が上って、そこから逃げ出したいような気分だった。
 理由などない。その翠の指輪につい目がいったのに、理由などないはずなのだ。
 だから落ち着けとラクウェルが必死に自分に言い聞かせている隣で、アルノーは相変わらず落ち着いたものだった。
「で、いくら?」
 買うのか! 怒鳴りつけようにもさっきから呼吸が苦しいのでやはりうまくいかない。口をぱくぱくさせているラクウェルの前で、アルノーは店主の提示した値にうなずいた。
「なかなか良心的だな」
「当たり前だって。ここじゃ、あこぎな商売してる奴はいないよ」
 それじゃあお買いあげでと機嫌良く笑う店主にアルノーはもう一度うなずいた。
「アルノー」
 ラクウェルはようやく動いた口でいさめるようにアルノーの名を呼んだが、アルノーは悪びれずに笑った。
「いいじゃないか、たまには。別に路銀に困ってるわけじゃないし」
「そうそう。たまには旦那にわがまま言わないと。奥さん美人なんだから、なんでも聞いてもらえるだろうに。ねえ旦那?」
「そうはっきり言われると、立つ瀬がないな」
 そんなことを言いながら勘定をすませ、商品をうけとると、アルノーは立ちつくしているラクウェルの左手をとり、中指にそれを通した。
「おや、どうせなら薬指にしてくれよ」
 からかうような店主の口調にも、アルノーは動じずあっさりと答えた。
「悪いな。そこにはもっといいのがはまることになってるのさ」
 それは失礼しましたと頭をかく店主に手をふって、アルノーはラクウェルの右手を引いて歩き出した。
「いい趣味だな」
 そのまましばらく歩いた後で、アルノーがかけてきた言葉に、ラクウェルの肩がはねた。
「べ、別に意味などないからな」
「はいはい」
 怒ったような固いラクウェルの口調にも、楽しげな声しか返ってこない。
 どうしてか何かに負けたように少し悔しくて、ラクウェルの表情がこわばったが、ふと目に入った左手に翠の輝きを認めてそれがゆるんだ。
 別に理由も意味もないけれど、この指輪がいいと思ったのは事実なのだから、落ち着いたら後で礼を言ってやってもいいかもしれない。
 ラクウェルは翠の光だけを見て歩いていたので気づかなかった。
 アルノーが、拒絶されなかったことにほっとして大きく息をついたことに。彼の鼓動がラクウェルのそれよりもずっと早鐘のようになっていたことに。  

終わり

WA部屋に戻る