一番の笑顔

 ユウリィは首をかしげた。
 ジュードの様子がおかしいのだ。


 あの悲しい戦いが終わり、アルノーとラクウェルの旅立ちを見送り、ユウリィはジュードと共にハリムで成長した。そしてそれぞれ進むべき道を決めた。ユウリィは教師としてハリムで青空の下、子供の声と笑顔に囲まれている。ジュードは森林保護官としてハリムを出て森の中、人間よりも動物と日々を過ごしている。
 毎日の生活を送る場所は離れてしまったが、それで二人の距離が遠くなることはなかった。ジュードは森の中で生活し必要な物もたいがいは森の中で調達しているが、それでも人里での補給なしに生活はなりたたないし、森林保護官としての研修や報告で他の町に行くこともあるので、定期的にハリムへ下りてくる。それにユウリィもそう頻繁にではないが、森の中の彼の小屋を訪問していた。彼女の手料理と、たくさんいる二人の親代わりからの様々な品々を差し入れに。
 だから二人で食事を取ることはそれほど珍しいことではない。それほど特別なことではない。
 ユウリィが彼の小屋の台所に立って料理をしているこの状況は、ジュードにとってそれほど特殊なものではないはずなのだが。
 ユウリィは台所の扉の外でうろうろしているジュードの姿に、もう一度首をかしげた。
 思えば今日は最初からおかしかった。ユウリィを戸口で出迎えてくれたときも、何かに驚いたように声がひっくりかえっていたし、食事の支度を二人で始めてからも、皮をむいた野菜がとんでもなく小さくなってしまったり、だしをとったお鍋の中味を流しへ捨ててしまったり。これ以上手伝わせたら包丁で自分の手を切り落とすか、火の中に顔を突っ込むかしかねないので、ユウリィはジュードを台所から隔離した。疲れているのだろうから、できるまで座って待っていてくださいねと笑顔で。
 それでジュードは一度は大人しく椅子に座ったのだが、すぐに立ち上がりまた台所に入ろうとしては引き返したり、部屋の中を無意味にぐるぐると歩き回ったりと、結局落ち着かない様子が抜けない。
 どうやらずいぶんと気にかかることがあるらしい。
 最後の味見をしながら、ユウリィは心当たりを探った。
 もしかしたら、さっき話していたウサギのことだろうか。この前にユウリイがここに来たとき、この小屋にケガをしたウサギがいた。歩けるようになるまでここで療養させるのだとその時聞いた茶色いウサギは、二、三日前に森に帰したのだと、ニンジンがえんぴつのようになるまで皮をむきながら、ジュードがさっき言っていた。ケガをしたのは脚で、ユウリィが見たときにはろくに歩けなかったそのウサギのことがジュードは心配なのかもしれない。野生の動物にとって脚が不自由なことは深刻な問題につながる。元気にやっているのかどうか、気にしているのかもしれない。
 あのウサギのことではなくても、他に何か森であったということも考えられる。落ち着いて食事をしながらなら、きっと何があったのか話してくれるだろう。
 舌に広がった味に満足してうなずくと、ユウリィは今日の料理をお皿にとりわけた。そしてできあがったことをジュードに告げようと、扉の方に振り向くと、すぐそこにジュードがいた。
 いつの間に入ってきたのかとユウリィは少し驚いたが、ちょうどよかったと口を開いた。

「ジュード、そこのお箸をとってくれますか」
「僕と結婚してください!」

「…………え」
 自分の声と重なって、それでもはっきりと聞こえたジュードの言葉に、ユウリィは目を見開いて立ちつくし、かなりの時間がたってからようやくそれだけの音を口から出した。
 目も口も開きっぱなしで、体は指先一つ動かないまま、お皿を手に持っていなくて良かったとそんなことが頭をよぎる。何かを持っていたら確実に床にぶちまけていた。
 動かないユウリィの視線の先では、ジュードが両手を握り身を乗り出した姿勢のまま、ユウリィの顔を凝視して、やはり動かない。
「ジュー…ド?」
 かなりの努力を費やしてからようやく動かせた口で小さく呼びかけると、ぼっと音を立ててジュードの顔が朱に染まった。
「あ、えっと、その、あの」
 頭をかいたり口元を覆ったり、ユウリィに伸ばしかけてはひっこめたりと、ジュードは忙しく手を動かし、言葉にならない声を口からもらす。
 さっきまで動かなかったのが嘘のようなその様子に思わずユウリィの顔がゆるむ。すると、ジュードの動きが止まり、きょとんとしてユウリィを見下ろした。
「ふふ」
 初めてあった頃より、さらに幼く見える表情が可愛らしくて少しおかしい。ユウリィの口元からさらに笑みがこぼれると、ジュードも笑顔になった。
 二人で笑う。最初はくすくすと小さかった笑みがどんどんふくらんで、声をあげて笑い出す。後から後から笑いがこみ上げてきて、いいかげんおなかも痛くなってきた頃、ようやくそれが止まった。
 笑いすぎてにじんだ涙をユウリィが指先でぬぐっていると、ジュードがユウリィの名を呼んだ。
「ジュード?」
 ジュードは応えたユウリィの声に黙って微笑み、何度か深呼吸をするとごめんねと言った。
「ごめん。驚かせちゃったね」
 小さく首をかしげるユウリィの前でジュードはすまなそうに頭をかいた。
「いきなりこんなふうに言うつもりじゃなかったんだけど、緊張しちゃって」
 そうしてもう一度深呼吸をすると、背筋を伸ばして姿勢を正し、ユウリィの目をまっすぐにとらえた。
「もう一度ちゃんと言うから、聞いてくれる?」
「はい」
 ユウリィも大きく深呼吸をして姿勢を正し、胸の前で手を組んでジュードの視線をしっかりと受け止め、うなずいた。
「ユウリィ、僕は君が好きだよ」
 普段よりもゆっくりとした口調でジュードが語る。
「初めて会ったときから好きだったし、ユウリィには笑っていてほしいと思っていた。でも、今はそれだけじゃないんだ」
 ユウリィはまばたきも忘れてジュードの青い瞳を見つめた。初めて会ったときから、自分を遠くへ、前へ導いてくれたその光は今も変わらない。
「今は、ユウリィに、僕の隣で笑っていて欲しい。ずっと一緒にいて欲しいんだ」
 胸の前で組んだ両手に知らず力がこもる。呼吸も少し苦しい。鼓動が全身に響くほど早く強くなっている。けれど、これは怖いわけではなくて。
「だから僕と結婚してください」
「はい」
 何かを考えたりするより速く、ユウリィの口から答えが飛び出した。しかしユウリィはそれに驚いたりはしなかった。体が勝手に動いてしまうほど、それはユウリィにとって自然な答えだったから。
 速すぎる承諾に驚いたのだろう。ジュードは一瞬目を見開いたが、すぐに笑顔になった。それはユウリィがジュードと出会ってからたくさん見てきた中で、一番の笑顔だった。
 ジュードの目に映る自分の顔も、きっと今までのなかで一番の笑顔をしているだろうと、ユウリィは微笑みながら思った。


 少し冷めてしまった食事をとりながら、ジュードが言う。
「今なら、アルノーの気持ちがわかるんだ」
「アルノーさんの?」
「うん」
 ジュードは視線を落とし、スープ皿の中のスプーンを見つめながら小さく笑って続けた。
「ラクウェルと二人でハリムを出て行っちゃったときさ、僕、どうして今まで通り四人一緒じゃだめなのかって、このままここにいてくれないのかって、やっぱりちょっと思っちゃったんだ」
「ジュード」
 ユウリィは二人がハリムを出て行くつもりなのではないかと、ジュードに告げたときのことを思い出す。そんなこと全然思いもしなかったと、ジュードの驚きは大きかった。あの旅で母親とたくさんの親同然の人達を喪ったジュードは、兄のように姉のように慕った人たちとの別れがやはり寂しかったのだろう。笑顔で再会を誓ってお別れをしたけれど、ユウリィだってやっぱり寂しかったのだから。
「でも、今は、アルノーがラクウェルとずっと一緒にいるために、その方法を探すために旅を選んだ気持ちがわかるよ」
 そう言って微笑んだ婚約者にユウリィも微笑む。
「アルノーさんとラクウェルさんに負けないくらい……」
 その言葉の続きをジュードが受けた。
「うん、幸せになろうね」

終わり

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