「いい天気だな」
ほんの少しひびわれた唇を軽くなめて湿らせる。そうしてラクウェルがぽつりとつぶやくと、傍らの椅子の上からのんびりと言葉が返ってきた。
「そうだなー」
膝の上に広げた本から顔を上げて、アルノーはラクウェルと同じように部屋の窓から空を眺め、降り注ぐ陽光に目を細めた。
今日は本当に雲一つない、いい天気だ。
日の光に透けると、アルノーの明るい髪がまぶしい。今日はもう外出する予定もないのに、その髪はいつも通りに整えられ、服装にも乱れがない。
まめな男だと以前言ってみたら、好きな女の前で男は格好をつけるものだとかなんとか、冗談とも本気ともつかないことを言ってよこした。
「風も気持ちよさそうだな」
ベッドの上に起こした体をまくらに預けて、もう一度ぽつりとつぶやいてみる。窓から見える木々の枝が優しく揺れている。小さく開けた窓から入ってきたその風が、熱で汗ばんだ体に心地いい。
「今日出発できていればよかったな」
もう一つつぶやいてから、思ったよりも暗く響いた自分の口調にラクウェルはどきりとした。アルノーの方を窺えば、心なしか表情がかげったように見える。
どうして自分はこうなのだろうとラクウェルは目を伏せた。
そんな顔をさせたいのではない。
朝起きた時、少し頭が痛いなと自分ではそう思っただけだったのだが、アルノーはラクウェルをベッドに押し込めた。彼が、ラクウェル自身よりラクウェルの体調の変化に敏感なのは、二人旅が始まってから、あるいは始まる前からずっとそうだ。
それで今日の出発は延期になった。ラクウェルのせいなのだ。
「そうだな。でも、こんないい天気の日だからこそ、部屋でゆっくりするってのもいいもんさ」
唇をかむラクウェルを知ってか知らずか、アルノーはのんびりとした口調そのままで答えた。
「見ろよ。昨日お前が描いていた花、今日の方がずっときれいだ」
今朝出発してたら見られなかったよな、と笑う翠の瞳があまりに優しくて、ラクウェルは思わず目をそらした。アルノーの言うとおり、昨日見たときよりも盛りに近づいた花は本当に美しい。
けれど、昨日のそれが悪かったのだと思う。宿の側に植えられた木に咲く花が美しくて、昨日夢中で描き上げた絵。暖かい季節とはいえ、外で風に吹かれるような真似はせず、部屋の中から眺めて描いたのだが、それでも長い間絵に集中してしまったことが、体に負担となってしまった。今日の熱はその結果だ。
そう、そんなことが、負担になるようになってしまったのだ。自分は。
窓の外に目をやれば、咲き誇る花。あふれる命の光がまぶしい。
いつかはくることを知っていた旅の終わり。それが確実に近づいていることがわかる。熱のせいでいつもより熱い体。赤い肌。それが嫌でもそれを教えてくれる。
遠からず、二人の歩みを止めなければならない。旅の終わりを迎える場所を決めなければならない。
それをラクウェルには言わせまいと、その決断をするのは自分なのだと、アルノーがいつからかずっと気を張っていることに、ラクウェルは気づいていた。そんなところまで過保護なのだ、この男は。
そして、終わりが近いことを、ひょっとしたらラクウェルよりも強く感じているかもしれないアルノーは、決して言わないのだ。
「絵なんて描かなければよかったのに」とは。
「そうすれば、今日出発できていたのに」とは。
そんなところにまで気を遣わせていることに、申し訳なく思う気持ちがラクウェルにはある。けれど、すまないと謝ったりすれば、アルノーはきっと怒るのだろう。いや、悲しむのだろうか。ラクウェルもそんなことをしてアルノーの気持ちを無駄にしたくはない。
だから、ありがとうとそう伝えたいのだ。
いつかジュードがユウリィに言った言葉。「ごめんなさいよりありがとう」だと。一番年少のジュード。その彼はあの旅の中いつも正しかった。
その言葉を今ラクウェルは強く想う。ありがとうの方が嬉しいよとジュードが言ったように、アルノーにも喜んでもらいたいのだ。
旅の終わりが近いことを知っても、自分の心が絶望に染まらないのはアルノーのおかげなのだと。今自分はとても幸せで、明日はきっともっと幸せなのだと。自分の心にあふれる想いを、アルノーに全部伝えたい。
けれど、心が動くほどには自分の表情も口も動かない。アルノーがくれる言葉や笑顔の十分の一も返せていないのではないかと、そのことがラクウェルには少し悔しい。
「ラクウェル?」
花を見やったまま、動かないラクウェルを心配したのだろう。いつの間にかアルノーが椅子から降りて、すぐ近くでラクウェルを見下ろしていた。
「大丈夫だ。お前の言うとおり、花があまり美しかったから、見惚れていただけだ」
「そうか? また描きたくなったか?」
そんなことを言いながら、アルノーはベッドの脇にしゃがみこみ、両手でラクウェルの手をとった。
「そうだな。描いてみてもいいかもしれないな」
まぶしいほどの命の輝きを。言葉も表情も動かない自分の想いを。
彼ならきっとそれでわかってくれるだろう。ラクウェルのそれは確信だった。
「じゃあ、とりあえず、寝た方がいい。熱が下がらないと絵どころじゃないからな」
「そうだな」
手をとられたまま、ラクウェルはベッドに横になった。
アルノーは片手をはずすと、ラクウェルに布団をかけ直し、その額に手を置いた。
「今朝よりは下がっている。一眠りすれば、すぐ元気になるさ」
元気にという言葉は自分にはもう似合わないはずのもの。それでもラクウェルはうなずいた。髪をなでる手の感触に目を細め、傍らのアルノーを見上げる。
「眠るまで、側にいてくれないか?」
「起きるまでいてやるよ」
離れていくぬくもりを名残惜しく感じながら、ラクウェルは願う。
明日はもっと上手に幸せだと伝えられる言葉が生まれるように。笑顔が作れるように。 アルノーからもらえる幸せよりも、自分がアルノーに与えられる幸せの方が少しでいい、多く大きくあるように。
そのためになら、残りの生を、たとえ短くても精一杯あがいてみせようと。
そんな決意と共に。