いつかの話

 それは、いつかの話。
 二人旅が日常になった頃のこと。

 街道の脇に咲く小さな花にラクウェルは目をとめた。
 赤ん坊の爪の先ほどもない小さな黄色い花びらが風に揺れている。一輪だけではなく、数本の花が寄り添う様子に目を細める。
 そんなラクウェルを見て、アルノーが言った。
「描いていくか?」
「いや、しかし」
 ためらう様子のラクウェルに、アルノーは笑う。
「大丈夫だって。まだ日も高いし、天気もいい。少しくらいのんびりしたって、暗くなる前には街に着けるさ」
 言いながらさっさと荷物を下ろし、取り出したシートを広げるとラクウェルに向かって一礼する。
「さあ、どうぞ。お姫様」
 馬鹿なことをとは言わずに、ラクウェルは笑ってそこに腰を下ろした。
 アルノーのそんな扱いにいちいち怒鳴り声を上げていたこともある。どうにも照れくさくて、どうしていいかわからなくて。今もくすぐったいことに変わりはないが、それを楽しむ余裕が出来てきた。その変化を何と呼んでいいのかはわからないが。
 花の脇に座って絵具を取り出す。アルノーはああ言ったが、やはり色をつけるほどの時間はないだろう。スケッチだけにしておこうと紙の上に鉛筆を走らせる。

 アルノーはそんなラクウェルの隣に寝転がって、顔をゆるめた。ラクウェルはすっかり集中してしまい、アルノーの方を全く見ない。音といえばラクウェルの走らせる鉛筆と紙とがこすれる音しかなく、ラクウェルはアルノーに何も話しかけてはくれない。完全にほったらかしにされているという状態なのだが、それでもアルノーは幸せに浸っていた。
 まだ四人で旅をしていたころ、ラクウェルは決して誰にも絵を見せなかった。完成した物も、描いている姿も全く。彼女が絵をやるというのは、彼女の言葉の上でしか知らなかった。それが今ではこうして自分の隣で描いている。自分の存在が彼女が絵を描く上で全然邪魔になっていないということが嬉しい。
 それが二人の距離が縮まっている証のように思えて、知らず顔がにやける。
 そしてふと思いつく。絵を見ることが許されたなら、次の段階も許されるだろうか。
 ラクウェルの絵が仕上がった頃合いを見計らって、アルノーは声をかけた。
「なあ、ラクウェル」
「なんだ」
 ラクウェルは仕上がったスケッチブックを目の前に近づけたり、遠ざけたりして絵の感じを確かめている。返事はアルノーの方を見ないままであったが、アルノーはかまわず体を起こして続きを言った。
「俺のことも描いてくれないか」
 アルノーの方を向いたラクウェルの目が大きく開いた。ラクウェルは無言であったが、その後ろにセリフを書くとしたら「正気か!?」というところか。

 実際、ラクウェルの心情はそんな感じだった。彼女に向かって自分の絵を描いて欲しいと言った人は、アルノーが初めてではない。ラクウェルが絵を描くことを知った人の、それはむしろありふれた反応で、ジュードにもそう言われたことがある。しかし、他の人とアルノーとの決定的な違いはラクウェルの絵を見たことがある、つまり彼女の絵の技量を知っているということだ。
 ラクウェルの絵がどういうものかを知っている上で、自分を描いて欲しいなどと言い出すとは酔狂にもほどがある、とラクウェルは思った。
「私は風景専門だと言っただろう」

 しばらくの無言の後で、ぶっきらぼうに発せられた彼女の返事に、アルノーは顔をしかめた。
 ラクウェルの返事は半ば以上予想通りだったのだが、それでもアルノーはかなりがっかりした。
 ラクウェルの絵の技量が優れたものとは言えないということは、専門外の芸術に関することとはいえ、アルノーにもわかっていた。しかし、アルノーは彼女の絵が好きだったし、いい絵だと思っている。技術はつたないかもしれないが、彼女が描いたその風景をどれほど美しいと感じているか、その中にある命をどれほど愛おしく思っているか、それがよく伝わってくる絵だからだ。
 だから、初めて見せてもらったときからずっと、いい絵だと言い続けてきたのに、ラクウェルには伝わっていないのだろうか。ただのお世辞だとでも思われているのだろうか。
「仕上がりに文句を言わないからだろう? 俺だって文句なんか言わないぜ?」

 不満というよりは落胆という表現の似合うアルノーの表情を見て、ラクウェルは目を伏せた。
 わかっている。彼はきっと文句なんて言わないだろう。
 彼に絵を見せるようになったのは、二人きりの旅なのに隠し続けるのは難しいということもあったし、絵を描くたびに追い払ったりするのも、気の毒というか、申し訳ないような気がしたからで、本当は見せずにすむなら見せたくないというのが正直なところだった。しかし、今は見せることを嫌だとは思わない。
 初めて絵を見てもらったときから、アルノーはいい絵だと、ラクウェルの絵が好きだと言い続けてくれていた。それがお世辞などではないことは、ラクウェルにはよくわかっていたからだ。
 ジュードに「嘘つきの天才」と評されたこともあるアルノーだが、実のところ彼は嘘がうまくない。良くも悪くもすぐ顔に出る。それはきっと彼の見かけや言動よりもずっと誠実な人柄の現れなのだろう。
  だから、アルノーがいい絵だと言って笑ってくれたとき、ラクウェルは本当に嬉しかったのだ。こんな下手な絵のどこがいいのかと、そんな風にも思いながらも、アルノーがいいと言ってくれるなら、自分の絵はきっといいところもあるのだと。
 でも、それと絵を描くということはまた別の問題だ。
 ラクウェルは苦し紛れに、承諾でも拒絶でもなく質問を口にした。
「どうしてそんなに描いて欲しいんだ?」

「描いてもらえるだけで嬉しいからさ。そういうもんだろう」
 目をそらしたままのラクウェルの問いに間髪いれず答えながら、アルノーは心の内で冷や汗をかいた。それは嘘ではないけれど、全部ではないからだ。もちろん描いてくれるだけで嬉しいのだけれど、それだけではない。
 でも言えない。
 彼女の手で自分がどんな風に描かれるのか、それが見たいからだなんて。
 彼女の目に自分がどう映っているのか、それが知りたいからだなんて。
 いつも描かれている風景から、彼女の命に対する愛情が伝わってくるように、自分を描いた絵からラクウェルの気持ちが伝わってくるだろうかと、そんなことを考えたのだなんていうことは。
 内心の動揺を隠しながらアルノーは逆にラクウェルに問いかけた。
「そっちこそ、なんでそんなに駄目だって言うんだ?」

 ラクウェルは言葉につまった。
 自分の絵の技量を知った上で描いて欲しいというのだから、描いてやればいいのだろう。どんな仕上がりになろうと絶対にアルノーは文句を言わないのだろうし、描いてやってもいいのだろう。 
 でも描けない。それに言えない。
 実は結構顔が好みなのだなんていうことは。
 それを自分の絵筆では再現できないから、悔しいのだなんていうことは。
 そんなことを言ったときのアルノーの反応が怖い。いや、アルノーの反応は予想できるような気もする。むしろそんなことを言ってしまった自分がどうなるかわからない。

 何も答えられずに固まってしまったラクウェルを見て、アルノーは肩をすくめて笑った。ここが引き際だと思ったのだ。もともと彼女を困らせるつもりだったわけではないし、自分の下心――と言ってしまうのは悲しい気もするが――がばれてしまうのも具合が悪い。
「まあ、いつか、気が向いたら描いてくれよな」
 気が向かなければ描かなくてもいいという言外の気遣いに、ラクウェルはようやく顔を上げた。
 それを見てアルノーは安心したように笑うと、荷物をまとめて肩に担いだ。
「じゃあ、行きますか。姫君」
「姫はよせ」
 そう言いながらも口調はやわらかい。
 街道を吹く風が二人の髪をゆらす中、並んで街を目指す。
 少し前を行く背中を見ながら、ラクウェルはそっと笑った。
 いつか、そのうち、描いてもいいかもしれない。自分では満足できる出来にはならなくとも、彼が笑っていい絵だと褒めてくれたら、人物画を描くことも好きになれるかもしれない。

 それは二人旅が日常になった頃のこと。
 まだ「いつか」の話が出来た頃のこと。

終わり

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