はずむ水音

 がぼりごぼりと歩くたびに足元で不快な水音がする。
 視線を下に向けるとたゆたう水は意外に澄んでいるのだが、そこら中でゆれている藻のせいか微妙にとろみを帯びている上に生温かく、不快感は増すばかり。加えて水を含んだズボンの裾が足首にまとわりついて歩きにくいことこの上ない。
 おこちゃまは半ズボンだからさぞ身軽だろうと前を進むジュードを見れば、大きな靴が水をくみあげる格好になるらしく、ジュードが足を上げ下ろしするたびに、がっぽんごっぽんと盛大に音がしている。その足取りからはいつもの軽快さは消え失せ、おこちゃまはおこちゃまなりに苦労している様子が見て取れた。
 アルノーは足を止めると、小さく息をついて肩をすくめ、空を仰いだ。
 まったく本当にいったいなんだってこんなことになっているのだろう。
 巨大な飛行船の中を走り回り、話の中だけの存在であったはずの魔族に遭遇した上に異空間に閉じこめられ、やっと魔族を退けてそこから脱出できたと思えばこれだ。
 辺りを見回せばうっそうと生い茂る木々。それも初めて見る種類のものばかりで、見知らぬ土地――それもずいぶん遠くに、飛ばされたことがわかる。知った土地に出るまでにどれほどかかることか見当もつかない。しかも足元は池というか沼というか、とにかく水がどこまでもずっと広がっていて、濡れると言うより、もはやどっぷりその中に沈んでしまっている靴がさっきから二人の足元でにぎやかに音を立てている。寒くはないのがせめてもの救いという状況だ。
 それでも、アルノーは自分が落ち込んでいないことに気づいていた。
 浮かれているとまではいかないが、それなりに心は軽い。絶体絶命のピンチを切り抜けたとはいえ、決して安心できるような状況ではないはずなのだが、まあなんとかなるだろうとそんなふうに考えている自分がいる。驚いたことに、なんとかしてみせるという気分すらどこかにあるようだ。
 柄じゃないよなと思いながらも、悪い気はしない。
 もう一度肩をすくめて歩き出そうとすると、ジュードが駆け寄ってきた。
「アルノー、なんかどこまで行っても同じような感じじゃない?」
「確かにな」
 二人を取り巻く木々やつるや草や水は、四方の景色をそれぞれ比べてみても区別がつかない。木にしてみれば、自分と隣の木とを一緒にするなと言いたくなるかもしれないが、人間の目にはその違いはさっぱりわからない。偵察に出るといって女性陣と分かれて歩き出してから、もっと正確に言えば、この地に入ってからずっと同じ物を見せられているような気がするほどだ。
「ねえ、帰り道わかる?」
 そう言って自分を見上げてくるジュードの瞳にほんのかすかだが不安を見つけて、アルノーは軽く笑うとその額を人差し指でつついた。
「おこちゃまと一緒にしてもらっちゃ困るな。ここの出来が違うって」
 押されて後ろによろめいたジュードは、額を両手で押さえて口をとがらせた。そんなジュードにアルノーは親指で自分の背後を指してみせた。
「ちゃーんと目印をつけてきたから大丈夫だって」
 ジュードはアルノーの示した方向へと体を伸ばして目をこらした。そしてすぐにアルノーの言う目印、彼が木につけた傷や折った枝を見つけて顔を輝かせた。
「あんなことしてたんだ、全然気がつかなかったよ」
 そうしてアルノーに向き直ると無邪気に笑った。
「やっぱり首から上は頼りになるね、アルノーは」
「まあな」
 アルノーも胸をはって答える。
 世間一般的には褒め言葉とは言い難いセリフではあるのだが、ジュードが言うと腹が立たない。そこに皮肉も嫌みもないからだろう。頼られていると思えば素直に嬉しくもある。
 やはり柄ではないと思うが。
「じゃあさ、そろそろ戻らない? 僕本当におなかがすいてきちゃったよ」
 見回りにでた二人のために、残った二人が食事を用意してくれているはずなのだ。
 早々に休憩を提案したのは、調子の良くないらしいラクウェルを休ませるための方便だったのだが、実際疲れているのは誰も同じで、腹が減っているのもまた誰も同じだった。
 だからアルノーもうなずいた。
「そうだな。とりあえず、何もなさそうだしな」
「ね、帰ろう帰ろう」
 ジュードはまたアルノーの先を歩き出した。アルノーのつけた目印をたどり、はずんだ様子でずんずん進む。大きく腕をふって鼻歌交じりで。
 相変わらず足元ではがっぽんごっぽんと盛大に音が鳴っているのだが、足取りの軽さがさっきとは段違いだ。
「そんなに腹減ってんのか?」
 これだからおこちゃまはとあきれ顔のアルノーを、ジュードは笑顔で振り返った。
「だって、ユウリィとラクウェルが作ってくれるんだよ? アルノーは楽しみじゃないの?」
 飯なんてどこで食っても同じだろ? とそう答えようとしてアルノーはしばし考えに沈んだ。
 ユウリィとラクウェルが作ってくれるんだよ?
 ジュードの言葉を頭の中で繰り返し、異空間でつかんだ彼女の手を思い出す。
 無骨な剣を軽々と振り回しているとは思えないほど繊細な手をしていた。初めてその手に触れたとき、その冷たさに驚きはしたけれど、震えが止まるかと包んでくれたその手から伝わってきたものはとてもあたたかいものだった。
「楽しみじゃないの?」
 繰り返された問いに、回想から引き戻される。
 アルノーは二、三度まばたきをすると、ゆっくりと答えた。
「……楽しみだな」
 じゃあ早く帰ろうと、とうとう半分駆けだしたジュードの後を追ってアルノーも駆け出す。ゆれる水をはねる足取りは自分でもおかしくなるくらい軽い。歌うような水音を聞きながら二人して速度をあげる。愉快な気分がこみあげてきて、笑みをこぼすとアルノーは空を仰いだ。
 まったく柄ではないと思いながら。

終わり

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