バイオリンを弾くのは夜、月明かりの下で。
特にそう決めたわけではないが、自然とそういう日が多くなっていた。
昼間は忙しい。フェアリーレイクのおかげで水くみだけは楽になったが、それでも食糧の確保、保存のための作業、道具の製作に修繕など、毎日の仕事は増えはしても減ることはない。明るい内にしておかなければならないことは山積しており、私一人仕事を離れてバイオリンを弾いていられるような状況ではない。
また、この島の強烈な太陽にバイオリンをさらす気にはなれないということもあった。バイオリンは直射日光に弱い。バイオリンを痛めるようなことは、ほんのささいなことでもしたくはなかった。このバイオリンに何かあっても、ここでは修理もままならない。コロニーにいるとき以上に、バイオリンの取り扱いには細心の注意を払わなければならない。
そうして私がバイオリンを弾くのは自然と夜に限られるようになっていた。
今日も私は月明かりの下でバイオリンを弾いていた。
月の明るい夜を選ぶのは、オオトカゲなどの危険な動物を警戒してのことなのだが、それだけとも言えない。バイオリンの音色は凛とした硬質の透明さと、甘く円やかな艶やかさを併せ持っている。それは月の光とどこか似ているように私には思えた。コロニーの人工の光では感じたことのないものだ。この惑星で初めて知った本物の月の光を、私は非常に気に入っていた。
冷たくも温かな月の光とバイオリンの音が、重なり合って湖面を滑っていくのが心地よい。私は丁寧に弓を運び、一番この手と耳に馴染んでいる曲を奏でた。
本当は、こんな夜中にバイオリンを弾くべきではないのだと、私もわかっている。今しか弾く時間がないのは確かだが、昼間あれだけ働き明日も働くのだから、一時間でも長く体を休めるべきなのだ。私自身のこともさることながら、何よりこんないえの近くで大きな音を出して仲間の眠りを妨げるべきではない。
バイオリンは、弾いたことのない人が想像しているよりずっと大きな音がでる。高音域を扱う楽器だけに細いイメージを持たれがちだが、その細く高い音が、鋭くどこまでも通り響き渡る。
できるだけみんなのいえから離れて弾くようにはしているが、夜に森に近づく危険を思えば、離れると言ったところで限界がある。皆の眠る部屋まで、私の音が届かないはずはない。
だが、不思議と誰からもうるさいと言われたことがなかった。あのハワードですら、苦情を言ってきたことは一度もない。もっとも寝付きが早く眠りの深いあいつは本当に何も聞こえていないのかもしれないが、他の者はそうはいかないだろう。
文句を言われない理由が、私のバイオリンを気に入ってもらえているからだというならば光栄だが、おそらく半分以上は、弾かずにはいられない私に対する思いやりなのだろう。
仲間の配慮に感謝しつつ、少しでもその眠りを妨げることのないように、極端な高音や速いパッセージのある曲は避けるようにしている。そしてあまり長く弾かないように心がけているつもりなのだが、そちらの方はつもりで終わることもある。弾いていると時間の感覚が無くなってしまうのだ。気がつくといつも、弾き始めたときと月の位置が変わっていて、慌ててバイオリンをしまうということも少なくはなかった。
今夜もふと弓を置いたときには、月の位置が随分と変わってしまっていた。またやってしまったと苦笑まじりでバイオリンを肩から下ろすと、森の方から何かが来る気配がした。バイオリンを自分の後ろに回し、息を殺し様子をうかがう。
やがて暗い茂みを揺らして姿を見せた相手に、私は肩の力を抜いた。それは危険な野生動物などではなく、見知った仲間の姿だった。ともすれば闇にまぎれてしまいそうなその髪色も、月の明かりの下に出てくればそれもまた鮮やかな存在感があった。
「カオル」
声をかけると、カオルはこちらに視線を向けて軽くうなずいた。見ればその手には立派な魚が何匹も下げられていた。
「魚を捕りに行っていたのか」
「この時間の方がとれるものもある」
短いやり取りを済ませるとカオルは湖の縁にひざまづき、捕ってきた魚の処理を始めた。腹を割き内臓を出して身を洗う。無駄のない手つきで淡々と仕事が進む。おそらく明日の朝食に間に合わせるつもりなのだろう。今日は収穫が少なく夕飯は質素だった。それを補おうと考えたのかもしれない。思いがけない朝のごちそうに、仲間は皆驚き、喜ぶだろう。
だが、私の胸をせりあがってくるものは感謝ばかりではなかった。黙々と作業を続けるカオルの動きを見守りながら、私は軽く歯を噛みしめた。
カオルは色の白い方ではないし、ここに来てからの皆がそうであるようによく日に焼けている。しかし無彩色の装いのせいだろうか、月の光にその肌がほの白く浮かび上がる。その白さを見ているうちに私は思ったのだ。今、言わなければならないと。
そして私は口を開いた。
「カオル、夜一人で森に入るのは危険だ」
カオルは作業の手を止めて視線をこちらに向けた。その口が開く気配がしたのだが、カオルが何かを言う前に私が続きを口にした。
「わかっている。自分の身は自分で守る、だろう?」
カオルがこの言葉を口にしたのは、降り続く雨の中シャトルで待機と決めた私に答えたあのとき一度だけだったが、口には出さなくてもその後もカオルの態度は変わらなかった。危険なことは控えるようにと口を出すのは私だけではなく、ルナもだったが、カオルは誰に何を言われようとも自分の行動を改める気はないようだった。
自分の身は自分で守る。
カオルにはそう言えるだけの力があるのだと、今では私も認めている。これまでの実績がそれを裏打ちしている。事実今日も、どこまで行ってきたのかわからないが、無事に戻ってきた。それも立派な収穫を手にして。
カオルのそうした行動が皆の生活を支え、助けていることも認めよう。それに対する感謝もある。私だけでなく皆そうだろう。だがそれでも、カオルの一人歩きをこのまま認めてしまうことはできなかった。他の誰が認めても私だけは認めるわけにはいかなかった。
自分の身は自分で守る。
かつて一度、私もその言葉を使ったことがある。だからこそ私は認めるわけにはいかないのだ。
カオルはいぶかしげにこちらを見上げている。手を止めたままにしているということは、私の話を聞くつもりはあるのだろう。ならば、やはり今話しておかなければならない。私は続きを語るべく口を開いた。
「カオル、お前の実力はわかっている。何か危険なことがあっても、お前ならば充分対処できるのだろうし、対処できないような危険には近づかないようにしているのだろう。だがそれでも不測の事態とは起きるものだ。そのときは、いったいどうするつもりだ?」
カオルは何も言わなかった。顔色一つ動かさなかった。しかし、答えるつもりがないのだということはわかった。カオルはもうこちらの話に対する興味を失ったようだった。そのまま作業を再開しようと視線が動いた。が、私はかまわずさらに続けた。まだ、一番言わなければならないことを言っていない。
「守れなくてもいいと思っているのではないのか?」
カオルの表情がわずかに揺れた。あまりにもわずかな変化だったので、図星をつかれて動揺しているのかそれとも心外だと怒っているのか、その表情から判断することは私にはできなかった。だが、反応があったということそれ自体が、私の推測がまちがっていないという証のように思えた。
なぜなら、私がまさにそうだったからだ。
自分の身は自分で守ると言い置いて一人で出かけた私が、そう思っていた。無論、自分がどうなってもいいなどと考えていたわけではない。だが、一人で出かけて万一のことがあったとしても、そのときはそのときだとそんな気分があったことは否定できない。何か悪いことが起こったとしても、それは私が私の責任において引き受ければいいことだと、それで済むのだと思っていた。他の者には何の関係もないことだとそう思っていたのだ。
だが、それは違う。
「カオル、お前の身に万一のことがあれば、それはお前の責任で済むことではない。今この状況で仲間が欠けるということがどういうことなのか、本当にお前はわかっているのか? 単に働き手が欠けて不自由になるということではない。生き抜いていけるという希望が欠けるということだ」
自分の命が自分だけのものだと思うのは、きっとひどく傲慢なことなのだろう。それは、自分につながる全てを否定するのと同じことだからだ。だから自分の命を守れなくてもいいなどと、粗末に扱ったりしてはいけないのだ。
そして、もし、本当に守れなかった場合、ここではそれはもっと切実で残酷な意味を持つ。ここでは、人は本当にもろい存在だ。何重にも守られているコロニーとは違う。注意を怠れば、命はたやすく理不尽に失われてしまう。
そのことを私達は皆わかっている。わかっていて、その危険と恐怖を押さえ込み日々生活している。だが、わかっていることと現実に経験するということは違うのだ。もし、現実に、たやすく誰かの命が失われてしまう状況に直面するようなことがあれば、どうなるか。自分の命がどれ危うい状況にあるのか、それをわかりやすすぎる形で目の前につきつけられて、それでもまだ、その恐怖を克服することができるだろうか。自分と同じ状況にある仲間の命が失われて、それでも自分は生き延びられると信じる力が持てるだろうか。
ここで自分の命を粗末にするというのはそういうことだった。自分だけの問題では済まない。他の仲間の命をも粗末にするということだ。
それは、許されることじゃない。
私達は、ひとりではないのだ。
作業を再開しようとした姿勢のまま、カオルはじっと湖面を見つめていた。その顔はもう静かだった。何の感情も読み取れない。それでもやはり手を動かさない以上は、私の話を聞いているのだろう。
それならば私も最後まで話してしまわなければ。言わなければとずっと思っていたことを。
「自分のことは自分で守ると言うなら、やり遂げてみせろ。守れなくてもいいなどと勝手な真似は許さない」
「そのつもりだ」
私が言い終わると同時にカオルからの返答があった。間髪を入れず返ってきたその答えに、好き勝手言葉をぶつけておいて勝手なことだが、私は少し驚いた。だがそれは、快い驚きだった。
そうか、カオル。お前も、わかっていたのか。
静かな横顔はそれ以上何も語るつもりはないようだった。固く引き結ばれた口元もまっすぐ手元に向けられた視線も、私がここにいることをもう忘れてしまったようにしんとしていた。
しかし、腹は立たなかった。
「ならいい」
最後にそう言い置いて、私は再びバイオリンを構え、曲を奏でた。
カオルはうそをつかないだろう。短いつきあいだがそのくらいの信頼は私の中にも生まれていた。
カオルが道具を洗う水音がバイオリンの音色に重なった。私はそれをわずらわしいとは思わなかったし、作業に集中するカオルも迷惑だとは言わなかった。
月が出ていた。
明るい夜だった。
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