「愛してるよ、シャアラ」
何度もそうくり返すハワードが、いいかげん困り果てているのはわかっていたのだが、シャアラは返事をしなかった。ソファに座り、固く握りしめたこぶしをひざの上に置いて、シャアラの顔はずっと下を向いている。今はハワードの顔を見たくなかった。
「シャアラ、なあシャアラ。こっち向けよ」
隣に座るハワードの声は次第に苛立ちを帯びていく。それにも気づいていたけれど、シャアラはただ首を振った。
移動を必要としない仕事についたシャアラと違い、ハワードは忙しい。仕事が不定期で不規則な上銀河中を飛び回っているので、二人がゆっくり会える日は少なくその時間は短い。だから、そんな貴重な時間にこんな態度をとって、ハワードの機嫌を損ねるなんて馬鹿げている。ハワードが困るのも怒るのも当たり前だ。
わかっている。本当はシャアラにもわかっているのだ。けれどどうしても顔が上げられなかった。
頑なにシャアラが答えないので、ハワードは大きなため息つき、続いて舌打ちをした。二人だけの静かな部屋に、その音はわざとらしいほど高く響きわたったので、シャアラは思わず肩をすくめた。
それがさらにハワードの気に障ったようだった。ハワードはふんと鼻を鳴らし、いいかげんにしろよと言った。
「こんなの、気にしなければいいだろ」
そうしてハワードは、シャアラの側に開いてあった雑誌を取りあげるなり勢いよく放り投げた。この部屋はシャアラの感覚からすると広すぎるくらい広かったので、雑誌はそれでも壁にぶつからなかった。二人から離れた床の上にがさりと乾いた音を立てて落ち、不自然に折れ曲がった表紙がぎりぎりシャアラの視界に入った。
「嘘っぱちだってわかってるんだろ?」
ハワードの語気は荒い。言いながらハワードは勢いよくソファの背もたれに倒れ込んだ。
その揺れを感じながら、シャアラはわかっているわと胸の中だけでつぶやいた。
ハワードが言っているのはハワード自身の熱愛報道のことだ。ハワードと女優との深夜デート写真なるものが大きく紹介されている雑誌を、シャアラは見つけてしまい、さらにはそれを見つけてしまったことをハワードに知られてしまったのだった。
ハワードのその手の話題が記事になるのは、実はこれが初めてでもなければ珍しい話でもない。
非常に華やかな職業に就いたハワードは、大方の予想を裏切って充分すぎるほどの成功を収めた。そうして、その成果や彼の出自に魅力を感じるような女性達の存在と、仕事がらみの周囲の思惑と、寂しがりで人なつこいハワードの性格が相まって、ハワードの女性関係の噂は珍しくない。というよりむしろ絶えない。
が、それらは単に数が多いだけで、中味は何の根拠もないものばかりだ。ハワードの本当の恋人であるシャアラが、気にしなければならないようなものではないし、事実シャアラがそうした噂を気に病んだ様子を見せたことはこれまでなかった。
それなのにこんな記事がまた雑誌に載ったからといって、今さらどうしてシャアラの機嫌が悪くなるのか、それがハワードにはわからないのだろう。最初は低姿勢だったハワードも、いいかげん腹がたってきたらしい。行儀の悪い体勢で組んだ足の先がイライラと小刻みに動いている。
刺々しい空気に居たたまれなくなっているのは、シャアラも同じだった。せっかく二人でいるのに、こんな雰囲気の中過ごすなんて最悪だ。
けれどどうしても素直にハワードの顔が見られない。
深夜デートと見出しのついた写真は、本当は単なるドラマ撮影の打ち上げだったのだそうだ。写真のフレームから外れたところには他の共演者もスタッフもいたのだという。ただ、ドラマの話題作りのために、恋多き男と名高い(本人は不本意な二つ名だと言い張っている)ハワードがまたも利用されたということらしい。
それはいいのだ。そんなことはどうでもいい。
本当に大事なのはシャアラだけだと言ってくれる、ハワードの気持ちを疑ったことなどシャアラはない。今度の記事だって、ああまた載ってるわねと最初は笑って見ていたのだ。笑い話だった。問題のその写真を見るまでは。
きれいに写っていた。
自分の恋人はずいぶん整った顔をしているのだと驚くくらいに。側にいるときはあまり思わないのに、こんなふうに外から見ると気づくというのも妙な話だが、それもハワードらしいとシャアラは思うし、そんなところも好ましいと思うのだ。
そして。
「なあ、まさか本当に信じてるんじゃないだろうな」
沈黙を破ったのは、やはりシャアラではなかった。ハワードが体ごと視線を自分に向けたのを感じ、シャアラは唇をかんだ。
「ぼくのことを信じられなくなったなんて、言わないよな」
続いた言葉は、少し音量が落ちていた。そこにハワードの不安がまざっているのを感じて、シャアラは急いで首を振った。そうじゃない。ハワードのことは信じているのだ、いつだって。
するとハワードはまた大きな声を出した。
「じゃあ、なんでそんなに気にするんだよ」
「だって、お似合いだったんだもの!」
シャアラは勢いよく顔を上げてハワードの方に向き直ると、一気にそうはき出した。
ようやく口を開いたシャアラの声が、その直前に出したハワードの声よりもずっと大きかったので、ハワードは目を丸くした。両端がややさがり気味の瞳を何度も瞬いてシャアラの顔をまじまじと見つめている。その瞳に詰め寄るようにして、シャアラはさらに続けた。
「写真、とてもよく撮れていたわ。ハワードも相手の人もいつも以上に素敵で、そして、だから、よく似合っていたわ。本当によく似合っていて、綺麗だなって思ったの。それで、わたしじゃこんなふうにはならないなって思って、だから……」
作られた熱愛だからなのか、その写真は見つめ合った二人だけを上手にとらえていた。ハワードより頭一つ分低い位置に顔のある相手の女優については、気さくで話しやすいとハワードが評したのを聞いたことがある。その評価にふさわしい微笑みを浮かべた彼女の姿が、シャアラの胸を焦がした。打ち上げの場所が高級ホテルなどではなかったと聞いたがそのせいだろう。彼女はごく普通の格好をしていた。飾り気のないノーブランドのカジュアルなスタイルは、シャアラにも手が届くようなものだった。けれど、それだけにシャアラは思ってしまったのだ。たとえ彼女と同じ服装をして、同じお化粧をして、同じように微笑んだとしても、自分ではこんなふうに写らないだろうと。
馬鹿げた考えだとわかっている。自分が美人でないことはわかっているし、そうでなくとも美しさを価値の一つとして活躍している女優と自分を比べてもしょうがないことだ。それに、そんなことに拘ったりするのは、ハワードの愛情を見た目で量るということであり、恋人に対してそれは随分不誠実な行為なのだ。
わかっている。シャアラにだって全部わかっているのだ。けれど、あまりに自然に並んだ二人の姿が、どうしても振り払えない。いっそきらびやかに着飾っていてくれれば、映画の一幕のように気にせずにいられただろうに。
あんなふうに撮られるなんてひどい、とシャアラの不満はハワードにも向かうのだ。
けれど勢いはそう長く続かなかった。胸の中は色んな想いでぱんぱんにふくれあがっているのに、口に出そうとするとそれは途端に頼りないものになっていく。何をどう言いたいのか、言えばいいのか、しゃべればしゃべるだけわからなくなり、最後にはまた声も顔も落としてしまった。
自分でもわけがわからないと呆れてしまうのだから、ハワードはきっともっと呆れているのだろうとシャアラは思った。そうしてまたうつむいていると、ハワードのため息が聞こえた。
ハワードはため息の後で髪をばりばりとかいた。そうしてもう一つため息をつくと、今度は立ち上がってソファから降りた。そしてそのままシャアラから離れていってしまった。
ああ、やっぱり呆れられたんだとシャアラは唇をかんだ。しばらくぶりに会えたのに、忙しい中シャアラのために時間をつくってくれたのに、こんなくだらないことで意固地になって、大事な時間を台無しにしたのだから当然だ。シャアラはひざの上に置いた手を一層強く握りこんだ。そうしないと涙がにじんでしまいそうだったのだ。
もう帰った方がいいのかもしれない。けれど涙をこらえているシャアラは動くに動けず自分のつま先を眺めていた。
と、足音がしてハワードが戻ってきた。
何を言われるのかと不安で身を固くするシャアラの隣に、どすんと先ほどよりも勢いをつけてハワードは座った。柔らかいソファが衝撃ではずみ、シャアラは体勢が崩れ思わず顔を上げてしまった。
その肩をハワードが引き寄せた。シャアラは驚いてハワードの顔を見ようと首を巡らせた。
パシャリ!
と、眩しい光が目に入ってシャアラは思わず目を閉じた。すぐに開いて目を凝らすと、カメラを持ったハワードがシャアラの肩を抱いたままにやりと笑った。どうやら今のはフラッシュの光だったらしい。
状況を把握できないシャアラが目をぱちくりさせている間に、ハワードはカメラを操作して写真の具合を確かめていた。そうして満足げに笑うと、ハワードはカメラをシャアラに差し出してきた。
見ろということなのだろうと理解してシャアラはそれを受け取った。そしてハワードの示すままにその画面を見ると、得意げにシャアラの肩を抱くハワードと、不意をつかれて完全に面食らっているシャアラが写っていた。
「ハワード?」
ハワードが何をしたかったのかよくわからず、首をかしげながらシャアラがカメラを返すと、受け取ったハワードはなおも画面をシャアラに示しながら言った。
「お似合いだろ?」
「ええ!?」
思いがけない言葉にシャアラは跳び上がった。その拍子にソファから落ちそうになったのだが、ハワードはまだシャアラの肩から手を離していなかったので、シャアラは床に転げ落ちてお尻をぶつけたりせずに済んだ。
「だろ?」
その近い距離からハワードはシャアラの目をのぞきこみ同意を求めてくる。が、シャアラはうなずけなかった。
目こそつぶっていないものの、写真の中のシャアラは完全にびっくりしたときの顔で、一言で表すなら滑稽としか言いようがなかった。――あの写真の女優とはやっぱり比べものにならない。お似合いだなんてとんでもない。
だからシャアラは正直にそう言おうとしたのだが、ハワードは無造作に手を振ってそれを制した。
「いいんだよ」
シャアラが何を言おうとしたのかわかっているのかどうか、実に軽い口調でハワードが断言した。
「このぼくがお似合いって言ってるんだ。それが間違いなわけないだろ?」
画面をもう一度確かめて、ハワードはふふんと笑って胸をはった。その鼻が自慢げに上を向いているのを見ているうちに、シャアラは口元がむずがゆくなってきた。
適当に撮ったいいかげんな写真で、しかもシャアラは見るからにおかしな顔をしているのに、それをこんなにも強気で振りかざすなんて。
「ほら言えよ、シャアラ。お似合いだろ?」
あきらめないハワードに、とうとうシャアラは吹き出してしまった。一度笑い出すと、それはなかなか止まらなかった。さっきまで固くなっていた体が全部ほぐれるまで、止まりそうになかった。ハワードも笑うなとは言わなかった。
本当になんて馬鹿げたことに拘っていたのだろう。馬鹿げているのは最初からわかっていたのだが、それが今は自然に飲み込める。ほんの一瞬の笑顔が似合って見えたからといって、それがどうだというのか。シャアラなら、笑顔じゃなくても隣で写っていられるのだ。そうして、ハワードがそれをお似合いだと言ってくれる。それで充分だ。
本当に、それで充分だった。
くだらないことでいじけていた自分のことを、腹筋が痛くなるほど笑いとばしてから、シャアラは得意げな顔をくずさないハワードにむかってうなずいた。そして、目元ににじんだ涙を指でぬぐいながら、呼吸を整え、口を開く。
「そうね、お似合いだわ。でも、写真はもう一度撮り直してちょうだい」
お安いご用だとハワードは胸を叩いて請け負った。 |