カオルは朝からずっと居心地の悪い思いをしていた。
どういうわけか視線を感じるのだ。それも相当な数の女子からの。
カオルは自分の教室の自分の席に座っているのだが、教室内だけでなく廊下の方からも見られているような気がする。女の子同士でひそひそと小声で何かを言い合っては、ちらちらとカオルの方に視線をむけてくる。どうにもいたたまれないのだが、さりとて打つ手も思いつけないカオルはただ無表情に座り続けた。
遠巻きに様子をうかがわれるという状況に、実はカオルは慣れている。カオルに話しかけるというのは、クラスメート達にとって随分と緊張を伴う行為であるらしいのだ。「先生が呼んでるよ」というような単なる連絡事項ですら、カオルは自然に伝えてもらえた例しがない。数メートル離れたところからカオルの顔色を恐る恐る探り、カオルに向かって一歩を踏み出すのにもさんざん逡巡し、ようやく近くに来たかと思えば今度は口を開いて声を出すのに時間がかかる、という具合だ。
自分は彼らにとって、なるべくなら近寄りたくない存在なんだろうとカオルは思う。それは仕方のないことだとも。他人に近寄りたくも近寄られたくもないと思っていたのはむしろカオルの方だったのだから、向こうの方から気軽に近寄ってこられるわけもないのだ。
今のカオルはそこまで他人を拒否しているわけでも忌避しているわけでもないのだが、そんなカオルの心境の変化が周囲に伝わっているとは言い難い。カオル自身の伝えようという努力が足りているとも言い難い。
だから避けられても仕方がないと思うのだが、今日のこれはどこか違うような気がする。かつて学友達が、カオルに話しかけなければならないという不運に見舞われた際に一様に持っていた、怯えに近い困惑のようなものが感じられないのだ。
話しかけたくないのに話さなければならないけれど話しかけられない。
と、そんなふうに、カオルが気の毒になってくるくらいの(今思えば、の話だが。当時はそんな思いやりを持ち合わせていなかった)びくびくおどおどした雰囲気が、今そこかしこから集まってくる視線には感じられない。
むしろ、話しかけたいけど話しかけにくい、とそんな意味合いが感じ取れるのだが、これは気のせいだろうか。ただ、何か面白がられているように感じるのはおそらく気のせいではない。
こんなふうに見せ物になってしまうような失態を、何か犯しただろうか。
困惑も窮まりすぎて苛立ちがこぼれ出しそうになったちょうどその時、一人の女子がおっとりとカオルに声をかけた。
「カオル、どうしたの? 怖い顔をして」
妙な緊張感がそれでほどけたことにとりあえずほっと息をついて、カオルは相手の名を呼んだ。
「シャアラか」
「何か、あったの?」
彼女はカオルに話しかけるのに顔色を探るような真似をしない。彼女の場合はカオルの心情を気遣ってくれるのだ。遠巻きに様子をうかがうのではなく、近くで自分を思いやってくれる仲間。それがカオルがあの長い修学旅行で手に入れた貴重な財産だった。
そんな頼れる仲間ならこの状況を打破する術を授けてくれるかもしれない。
しかしカオルはただ首を振り、何でもないと言った。今の不可思議な現状を解説してもらいたいのはやまやまだったが、どういう状況をどう奇妙に感じているのか、それを上手に説明する自信がカオルにはなかったのでそうするしかなかったのだ。
「そう?」
怪訝そうではあったが、重ねて尋ねても答えはないと判断したのだろう。シャアラはそれ以上何も言わず、手にしていたものをカオルに向かって差し出した。
「はい、カオル」
それは両手に載りそうなくらい小振りな紙袋だった。白地にピンクのハートやリボンがプリントされた、その随分と愛らしい雰囲気に気圧されてカオルは思わず眉をひそめた。自分に縁のあるものとは思えなかったのだ。
「これは?」
随分と正直な感情を表情にも声にも載せてしまった。一瞬シャアラに悪いことをしたとカオルは思ったのだが、シャアラの方は気にしなかったらしい。短くさらりと答えを返してきた。
「今日はバレンタインだから」
「バレンタイン?」
聞き慣れない単語にカオルはさらに眉を寄せ、同時にどこかで聞いたことがある言葉だと記憶を探った。そうしてほどなく思い出す。昨日メノリもそんなことを言っていなかったか。明日はバレンタインだと。そして風紀委員の仕事が増えると言っていた。
しかし、それを思い出しても目の前の袋と自分にそれがどう関係するのか、カオルはやはりわからなかった。
「バレンタインというのは、いったい何なんだ?」
「知らないの?」
シャアラは尋ね返してきたがそれは反射的なものだったのだろう。それに対するカオルの答えを待つようなことはせずにバレンタインについての説明をしてくれた。
「あのね、女の子から好きな男の子にチョコレートをプレゼントする日なのよ」
好きな男の子という単語にカオルが引っかかりを覚えるより早く、シャアラは注釈を加えた。
「プレゼントする相手は、好きな男の子だけじゃなくてもいいの。お友達とか、お父さんや先生とか、なかには知り合いの男性みんなにあげる子もいるわね。それに女の子同士でやりとりするのも楽しいわ」
私もルナとメノリにあげたのと続く説明に、一応バレンタインなるものの概要はわかったような気がするが、それでもカオルはただ困惑するばかりだった。要するに女性が知人にチョコを配り歩く日ということらしいが、そこに意味はあるのだろうか。
「だから、カオルにも。どうぞ」
この行事に意義は見いだせなかったが、カオルはシャアラからの贈り物を受け取った。行事の善し悪しはともかく、自分にチョコをくれるのは純粋にシャアラの好意なのだろうし、その好意を素直に嬉しいと感じることもできたからだ。
もしかしたらそれがこの行事の意義なのだろうか。
カオルはつい先ほどの自分の考えを改めた。この無意味に見える行事は決して無意味ではないのかもしれない。好意を目に見える形で表しそれをやりとりするという行為には、少なからず優しい感情が含まれる。それを喜び楽しむことが、この行事の意義なのかもしれない。
他人から好意を向けられても嬉しいと感じることのできなかった以前のカオルなら、わからなかったことだろうけれど。
受け取った紙袋の中には丸い缶が入っていた。この中にチョコレートが入っているのだろう。シャアラは料理が上手だから、自分で作ったものなのかもしれない。
手にした重みが心地よく、カオルの顔に自然な笑みが浮かんだ。
「ありがとう、シャアラ」
「どういたしまして」
笑顔を交換すると、シャアラは教室を出て行った。同じ紙袋が彼女の手にあったので、きっと他の仲間達を探しに行ったのだろう。
シャアラの背を見送って、カオルは机の上にもらった紙袋を置いた。
カオルは普段甘いものを食べる習慣はなかったが、特に甘いものが苦手というわけでもなかった。帰ったら早速いただこう。きっとおいしいだろう。そうして明日はシャアラにもう一度礼を言わなければ。
「カオル」
また誰かに名を呼ばれて、カオルがシャアラからの贈り物に向けていた顔をあげると、一応見覚えはある女子がカオルを見下ろしていた。確かクラスメートで、今朝からずっとカオルを伺っていた一人でもある。
「これ、私から」
小さな包みを差し出されてカオルは驚いた。おそらくこれも中味はチョコレートなのだろうが、どうして彼女は自分にこれを渡すのだろう。
そういえば知り合い皆に配る人もいるとシャアラが言っていた。今目の前にいる彼女がそういう子なのかもしれない。チョコをあげるのは楽しいとも、シャアラは言っていた。さっきカオルがシャアラのチョコを受け取ったところは見られていたのだろうし、これを拒否しては非礼にあたるかもしれない。
「ありがとう」
そんな結論が出たのでカオルは礼を言ってそれを受け取った。が、その次の瞬間にはカオルは自分の選択を後悔した。それから堰を切ったように、女の子が入れ替わり立ち替わり現れてはチョコを目の前に積んでいったからだ。
最初のうちは律儀に一人一人にありがとうを言っていたのだが、カオルはすぐにその努力を放棄した。礼儀知らずと言われても仕方がない。誰がどれをくれたのか、カオルの動体視力と記憶力を持ってしても判断がつかなくなっていったからだ。
『明日は鞄を持ってきた方がいいぞ』
不意に昨日メノリに言われた言葉を思い出し、カオルは低くうめいた。
あれはこのことだったのかと、すでに机からこぼれ始めているチョコの山に、カオルは遅まきながらその意味を知った。
知り合いという知り合いにチョコを配るという女子がこんなに多いのなら、そう教えておいて欲しかった。
それがメノリの期待通りの姿であったとは、カオルには知りようもないことだったが、その時カオルは確かに途方に暮れていた。
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