初めてのバレンタイン

「バレンタイン?」
 聞き慣れない単語にルナの声が跳ね上がった。
「って、何?」
「そうか、ルナは知らないのね」
 怪訝そうなルナにシャアラは嬉々として教えてくれた。それによると、バレンタインとは女の子が好きな男の子にチョコレートを渡して告白する日なのだそうだ。
 由来は地球時代のとある宗教にあるらしいのだが、シャアラも詳しくは知らないという。ただ、本来チョコレートはバレンタインとなんの関係もないのだとか。それがやはり地球時代のとある国で、製菓会社が始めたキャンペーンが大当たりし、その国ではバレンタインといえばチョコレートという図式が出来上がってしまった。それを何年か前にロカA2の製菓会社が真似をして、やっぱり大当たりをしたのだそうだ。今では冬の風物詩としてすっかり定着したらしい。
 とはいえそれは地域限定ロカA2のみの行事。ひょっとしたら他にも真似しているコロニーがあるのかもしれないが、少なくとも火星育ちのルナは知らなかった。
『要するにお菓子会社の販促行事ちゅうことやないか。踊らされるのはあほらしいわ』
 チャコならそう一蹴するのかもしれない。けれど目の前のシャアラは楽しみでしょうがないという様子だった。
「でも、あげる人がいないからなあ」
 好きな男の子に告白、と言われてもルナにはいまいちピンと来ない。
 気乗りのしないルナに、しかしシャアラは笑って首を振った。
「見るだけでも楽しいわよ。今はとってもいろんなチョコが売っているから」
 あげる相手は好きな男の子じゃなくてもいいのだとシャアラは言った。お世話になっている人に渡す義理チョコ、女の子同志で交換する友チョコ、自分のために買うマイチョコなど、とにかくこの時期にあふれかえる様々なチョコを楽しめばいいのだと、シャアラはバレンタインのススメをとうとうと語った。
 結局、一緒に買いに行こうという誘いを断れず、放課後ルナはシャアラと寄り道をすることになった。


「ちょ、ちょっと通して下さい。すみませーん」
 人波をかき分けかき分け、どうにか店の壁際に空いているスペースを見つけて、ルナはやっと息をついた。壁に手をついて肩で息をしながら、ルナはシャアラについてきたことをちょっと後悔していた。
 この時期にはどこの店もバレンタインの特設会場を用意するのだということだったが、一番人気なのだとシャアラが連れてきてくれたここは、チョコを求める女の子達であふれかえっていた。店に入って早々にシャアラともはぐれて人にもまれたルナは、すでに疲労困憊であった。
 もちろん、店内に山積みされたチョコに興味がないわけではない。ルナも女の子の例にもれず甘いものは好きだったし、形から何から様々なチョコを食べてみたいなとは思う。ピンクを基調に飾られた店内の様子もかわいくて楽しい。
 けれど。
「人が多すぎるよ〜」
 ぼやいたルナは壁にもたれた。バレンタイン初心者にこの混雑の中から、マイチョコにしろ友チョコにしろ、手頃なものを選べというのは酷なのではないか。いくら珍しくておいしいチョコが食べられる機会だといっても、こんな思いをするくらいならいつものスーパーで普通のチョコを買った方がいい。人に酔ってしまったので、どのチョコを見てもすでにお腹一杯だ。
「いたっ」
 壁際の隅だからと油断しすぎたようだ。ルナは、チョコを探している他のお客とぶつかってしまった。近くの棚に手をついてなんとか転ぶのは免れる。
 いけない、いけないと体勢を整えながら、ふとその棚に積んであったチョコがルナの目に入った。
 ルナの手のひらよりも小さい正方形の薄い箱の中に、やはり薄くて正方形のチョコが並んでいる。縦に2つ。横に2つ。2×2で4枚のチョコがきちんと整列しているその箱になんとはなしに視線が定まった。中が見えるのは見本らしく、その隣には包装されたものがある。深い緑に所々金と黒の細い線が走るそれは、ピンクや赤であふれた店の中で、とても落ち着いた雰囲気をただよわせていた。
 見本を手に取ってみると、チョコそのものも深い色をしていた。ゆったりと沈むような黒。見本には小さなカードがついていて、おそらくお店の人の手書きなのだろう、短いチョコの説明書きがあった。
 甘さを抑えたビターチョコ、深い味わいを楽しんで。と、そう読めた。
 ルナは甘いチョコの方が好きだった。ビターチョコには普段手を出さない。チャコへのお土産にするにしても甘い方がいいだろう。けれど見本を元の位置に戻したルナは、販売用としてきちんと包装されている同じチョコを手にとった。
 深く落ち着いた色。沈むように深いそれは、けれどけして暗くて冷たいものではない。
 じっとそれに視線をそそいでいると、不意に肩を叩かれた。
「ルナ、それ買うの?」
 振り向くとたくさんの商品の入ったかごを下げたシャアラが、ルナの手の中のチョコをのぞいていた。
 急に話しかけられたことに驚いたルナがすぐに言葉を返せずにいると、シャアラが不思議そうに首をかしげた。
「買わないの?」
「ううん。買うよ」
 ちょっと見てただけなのだとそう言おうと思ったのに、気がついたときにはルナはうなずいてしまっていた。シャアラに続いて会計を済ませながらそんな自分に首をかしげる。特にあての無い買い物。チャコにも自分にも不似合いなチョコ。けれどそれを下げて家へと戻るルナは嫌な気分ではなかった。
 

 バレンタインデー当日は、予想していたよりもみんなそわそわしていた。
 チョコをあげる女の子だけではなくもらう側の男の子も。お互いに動きを気にしあっているクラスメートを、ルナは微笑ましい気持ちで一日見守っていた。
 ルナ自身は結局誰にもチョコを渡さなかった。本命はもちろん義理も友もだ。義理だの友だの言い出したら、いったいいくつ用意すればいいのかわからなくなってしまったということもあるし、いくつ買うにせよ、またあの混雑の中に出かけなければならないのかと思うとすっかり腰が引けてしまったのだ。
 あの日買ったチョコは一応かばんに入れてきた。けれどそれは出番のないままに、ルナにとって初めてのバレンタインデーは終わろうとしていた。バイバイまた明日と友達に手を振りながら校門をくぐる。
 ただ、もらう方はそれなりの収穫だった。シャアラを始めとしてクラスメートの女の子からの友チョコが数個、渡さなかったチョコと一緒にかばんの中に入っている。チョコの交換ができないので初めはもらうのが申し訳ないような気がしたが、来月にはチョコのお礼をするホワイトデーという行事があるということも教えてもらったので、くれた人にはその日にお返しをすればいいかと今は気分が楽になっている。
 友チョコといってもそこは女の子が選んだもの。ラッピングも工夫を凝らした可愛い物だったし、中味のチョコもきっとステキなんだろう。帰って包みを開くのが楽しみで、ルナはそれなりに心が弾んでいた。なるほど、みんながバレンタインデーに浮かれる理由が少し分かったような気がする。好きな人に告白云々というのは結局おまけで、要するにお祭なのだ。
 バレンタイン、悪くないかも。
 そんな風に思いながら家路をたどるルナは、見知った背中が前を行くのを見つけて足を速めた。
 早足の細身の人影に追いついて声をかけようとしたところで、その相手が抱える荷物に気づいたルナの目が大きくなった。
「わぁ、カオル、たくさんもらったのねえ」
 思わず感嘆の声をあげてしまったルナに視線を流したカオルは、歩く速度をゆるめてため息をついた。
 何も言わないでただ不機嫌そうに眉を寄せているカオルにルナは首をかしげた。
「どうしたの?」
「シャアラが……」
「シャアラが?」
 カオルはもう一つため息をこぼすと肩をすくめて続きを口にした。
「シャアラがくれるというので受け取ったら、近くにいた女子がくれたんだ」
「そんなにたくさん?」
「気がついたら増えていた」
 短いカオルの言葉に、それでも充分情景が想像できてルナは吹き出してしまいそうだった。
 初めて出会ったときから比べるとカオルのまとう雰囲気はずいぶんやわらかいものになってはいたが、普段の口数が少なめなのは相変わらずだった。だから女の子たちはカオルに渡そうと思ってもなかなか渡しづらかったのだろう。そうして尻込みしていたところに、シャアラがカオルに渡したのを見て飛び付いたのだ。断られることがなさそうだとわかって安心したのだろう。そしてカオルもシャアラのを受け取った手前、他の子のを断るわけにもいかず全部律儀に受け取ったのだろう。
 なんでも器用にこなすくせにやたら真面目で不器用な性格をしている彼は、そのときどんな顔をしていたのだろうか。
 さすがにここで笑っては失礼だろうと、気持ちを引き締めたルナはとりあえず口を開いた。何かをしゃべった方が笑わずに済むと思ったのだ。
「やっぱりたくさんもらえると、うれしい?」
 だからそれは何気ない質問だったのだが、カオルが表情を変えたのでルナは軽く息をのんだ。いつの間にかカオルの足が止まっている。合わせてルナも立ち止まったが、カオルの視線がまっすぐ自分の顔で止まっているので居心地が悪かった。深い色の瞳が静かにこちらを見据えている。怖くはなかったが、落ち着かない。
 この深い色をどこか他で見なかっただろうか。
 何かを思い出しそうになったルナが身じろぎをしたのと同時にカオルの口が動いた。
「ルナはくれないのか?」
「え?」
 何を言われたのかとっさにわからず、ルナはただ聞き返した。そしてその言葉の意味をルナが考えるより速く、カオルは次の言葉を口にした。
「じゃあそれほどでもないな」
「ええ?」
 カオルの話について行けずにルナが目を白黒させていると、カオルはふと口の端を上げた。そうしてもう一つ言葉をこぼす。
「もらえるとうれしいかと訊いただろう?」
 言い終えるとカオルはルナを待たずに歩みを再開させた。
 その背中が少しずつ遠くなっていくのを眺めながら、ルナはカオルの一連の言葉を頭の中で繰り返した。

『ルナはくれないのか?』
 何を? カオルはそこを省略したけれど、今日が何の日なのか、そしてそれまで何の話をしていたのかを考えれば、何をくれないのかとカオルが尋ねたのか、ルナにだってそれはわかる。

『じゃあそれほどでもないな』
 何が? カオルはそれも省略したけれど、落ち着いて考えればその答えもわかる。ルナの質問に対するこれはカオルの答えなのだ。
 次にカオルが言ったことが、その推測を確信に変える。

『もらえるとうれしいかと訊いただろう?』

 ルナはこくりと息を呑んだ。そして先へ行ってしまった背中を追いかけて走り出す。
 走りながら背中のかばんを下ろしてその口を開ける。そうしてもどかしげに目当ての包みを探す。
「カオル!」
 振り向いてくれた深い色の瞳にルナはそれを差し出した。
 深い緑の包装紙に包まれた甘さを抑えたチョコレート。出番のないまま終わるはずだった初めてのバレンタイン。
「受け取って?」
 カオルは驚いたのだろう。すぐには手を出さなかった。しばらくルナの様子をうかがうようにチョコの包みとルナの顔を見ていたが、やがて手を伸ばしてそれを受け取ると、やわらかく目を細めた。
「うれしい?」
 黙ったままでは恥ずかしくなってきたので、少しおどけた調子でルナがそう尋ねると、カオルは笑ってうなずいた。
「ああ。ありがとう」
 ルナも笑顔を返した。
 そうして二人で歩き出す。
 並んで家路をたどりながら思った。バレンタインデーってやっぱり悪くないな、と。

その他部屋へ戻るリストへ戻るトップへ戻る