第五十一話 死ぬために行くんじゃない

 聞き慣れた音色を頼りにたどり着いた人の元には、小さな先客が居た。

 メノリの演奏の本当の良さがわかるのは、かつてピアニストを目指した自分だけだという主張は一笑に付されてしまったが、ハワードが聴衆に加わることに対しては何も言われなかったので、ハワードはアダムと並んで座り、改めて始まったメノリの演奏を聞いていた。
 メノリが弾くのはいつもの曲。もうすっかり覚えてしまったメロディー。
 そればっかりで飽きたりはしないのかとなんとなく頭に浮かんだ考えは、けれどすぐに結論が出た。聞いているハワードも飽きたとは思わないのだ。弾いている方はなおさらだろう。
 曲が終わるとアダムが立ち上がった。どうしたのかと見ていると、メノリの前まで行ったアダムは、彼女に向かって両手を伸ばし、こう言った。
「メノリ、ボクにも弾かせて」
 驚いた。
 メノリに対してバイオリンを弾かせろとせがむという行動に出たアダムに、ハワードは本当に驚いた。なんて怖い物知らずなんだとそう思ったのだが、続いてのメノリの対応にはもっと驚いた。
「ああ。好きなだけ弾くといい」
 そう言ってメノリはバイオリンをアダムに手渡したのだ。あのメノリがバイオリンを他人に触らせるなんて。
 仰天するハワードの前で、バイオリンはメノリからアダムの手へと渡った。アダムは嬉しそうにそれを構えると、慣れた様子で弓を動かし、音を出し始めた。
 一つ、二つ、三つ。バイオリンの具合を確かめるように、最初はただの音を鳴らしていたアダムだったが、次第に調子が出てきたのか、やがて音は曲となった。
 ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソー。
 流れ出したのは、ハワードにも覚えのある曲だった。メノリの推測通り無理矢理ピアノを習わされていたときに、弾いたことがあるように思う。無理矢理やらされていたピアノなのに曲を覚えているのは、それでも真剣にやっていたからだと言いたいところだが、違う。何しろ習っていた期間が短いので、そもそも弾いたことのある曲というのがとても少ないのだ。それにこの曲は小学校の音楽の授業でも、歌うか演奏するかしたような気がする。
 要するにそれは有名な曲だった。ハワードでもその曲名がわかるくらいに。
 きらきら星。確かそんなタイトルだった。
 今夜の降るような星空の下で弾くにはぴったりだなと、普段なら思わないような感想が浮かぶ。そうしてふと、視線を演奏するアダムから、そのアダムを見守るメノリに移して、ハワードはさらに驚いた。
 それはほとんど衝撃に近い驚きだった。
 メノリはこんな顔をしていたろうか。ハワードの目と口が、これ以上は開かないというところまで開く。
 懸命に弓を運ぶアダムを、メノリは微笑みながら見守っていた。その微笑が柔らかいことに温かいことにハワードは心から驚いたのだ。こんなふうに笑うメノリは見たことがない。
 そんなふうにも笑えるのか。
 そう思って今度は驚きとは別の感情がわき上がる。
 そんなふうにも笑えるのなら、いつもそうしていればいいのに。
 ハワードの前でも、そうやって笑ってくれればいいのに。
 ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソー、ファ、ファ、ミ、ミ、レ、レ、ドー。
 最初の旋律を繰り返して、アダムの演奏が終わった。
 誇らしげにメノリを見上げるアダムと、よくやったとアダムを見下ろすメノリ。二人を見るハワードの口がとがった。

 なんだか無性に悔しくなったのだ。
 
 そろそろ帰ろうと、バイオリンを片づけてコントロール宇宙船へと戻る道すがら。先に歩き出したアダムを見送って、ハワードはメノリがアダムに追いつく前にメノリの隣に並んだ。メノリがバイオリンのケースを持ち上げる分だけアダムから遅れたのを見逃さなかったのだ。
「なあ、メノリ」
「なんだ?」
 話しかけるとメノリは短く答えてくれた。無視されなかったのはいいが、ハワードを見るメノリの顔は、ハワードのよく知るいつものメノリの顔だった。別に怒っているわけじゃないというのは、これまでのつきあいからわかるのだが、どうにも表情に乏しい。さっきはあんなに綺麗に笑っていたのに、どういうことだろうか。
「だから、いったいなんだ?」
 むかむかする気分からハワードがしばらく黙っていると、メノリがもう一度尋ねてきた。その声が多少苛立っているのは、この状況では仕方がないのかもしれないが、ハワードはやはり面白くなかった。むかむかした気分のまま、尖りぎみの口を開く。
「今度はぼくのために弾いてくれよ」
「お前のために? これからか?」
 片づける前に言えと、叱るような口調になったメノリに、ハワードは首を振った。
「ちーがーう! 今じゃない。帰ってきてからだ!」
 強い口調で先ほどの要求に補足する。
「帰ってきてから?」
 それでもよくわからないという様子のメノリに、さすがにハワードの声も高くなった。
「だーかーら! 明日! 明日の作戦が終わって帰ってきたら、ぼく一人のために弾いてくれって言ってるんだよ!」
 ここまで言えばわかるだろう。ふん、と鼻を鳴らしてメノリを見ると、メノリは軽く目を見張った。
 そうしてメノリはしばらくハワードの言葉の意味を図るかのように黙っていたのだが、やがてゆっくりとうなずいた。
「いいだろう。明日、帰ってきたら、弾いてやろう」
「よーし。約束だぞ!」
「ああ」
 聞いて欲しかったのは、どちらかといえば「明日」より「ぼく一人」というところの方だったのだが、ハワードはメノリの答えに満足げにうなずいた。
 弾いてやろうと言ったメノリの口元が、とても柔らかくほころんでいたから、ハワードは充分満足だった。

終わり

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