第四十話 とうとう着いた

「なあ、メノリ。何怒ってんだよ」
「怒ってなどいない!」
 たたきつけるような尖った返答をあきらかに不機嫌な顔でされても説得力がない。ハワードはあきれたような表情でベッドの上にあぐらをかき、頬杖をついた。

 アダムの不調の原因がナノマシンにあると判明し、その治療のために一番近いテラフォーミングマシンに向かうことになったのだが、進路はどうあれ、毎日の仕事分担は変わらない。そこにアダムの看病という重大な役目が加わったことを除けば、通常通り仕事は回ってくる。
 で、現在のハワードはといえば「休憩中」だった。さぼりではない。本当に休憩時間なのだ。実際、先ほどベルと見張りを交代してきたところだ。誓ってもいい。それでその時間を昼寝にでも使おうかと船室に戻ってきたら、やたらめったら怖い顔をしたメノリと鉢合わせたというわけだった。
 どうやらメノリも休憩中らしい。窓の近くに座って厳しい顔で外を眺めている。そんなメノリの様子にハワードの方は頭が痛かった。せっかくの休憩時間だというのに、こんな仏頂面のメノリの横ではとてもじゃないがいい夢など見られないだろう。
 ハワードは低くうなると、メノリにもう一度同じ問いを向けた。
「なあ、メノリ。何怒ってんだよ」
「……怒ってなどいない」
 メノリからの回答も同じものだったが、今度はいくぶん穏やかな口調で返ってきた。けれどそれでハワードが安心できたわけではない。相変わらず視線は外を向いたままだし、表情もちっとも変わらない。穏やかになった口調にしても、意識して抑えているのが見え見えだ。おそらく、「怒っていない」という主張を補強してハワードからの三度目の問いを封じようと、穏やかを装っているだけなのだ。
 ほんとに何怒ってんだ?
 そんな偽装にはだまされない。だからハワードはいまだ頭に疑問符を浮かべたままだったのだが、一方で一つわかったこともある。
 メノリが何に怒っているにせよ、その怒りはハワードに向いたものではないということだ。
 メノリに怒られた回数なら仲間内で一番を誇るハワードだからこそわかるのだが、もしメノリがハワードに対して怒っているならば、メノリの返答はもっと違ったものになるはずだ。それこそハワードのどこが悪くて何が至らないのか、非常に詳細にしかも腹の立つほど的確についてくるだろう。しかもハワードからの問いを待ったりはしない。尋ねる前にお説教が始まるのがいつものパターンだ。それが不機嫌の壁をはりめぐらせたままとはいえ、ハワードに対して何の叱責もないのだから、少なくともメノリの回答は一部だけ真実なのだ。
 メノリは「ハワードに対して」怒ってなどいない。
 じゃあ、いったい何なんだ?
 ハワードはさらに首をひねった。
 メノリの回りには依然ぴりぴりとした空気が漂っていて、その怒りの矛先が自分に向いたものではないとわかった今でも、ハワードは眠る気分にはなれなかった。
 ハワード自身にはもちろん叱られるような覚えがあるわけではないが、他のこととなると……。
 ひょっとして、あれか?
 少しの間考えをめぐらせて、ハワードは一つの心当たりに行き当たった。メノリの機嫌が悪くなったのはいつからなのか、それを辿ったのだ。昼間、焼ける魚を囲んで皆で談笑していたときに、いきなり声をあげたメノリ。その原因となった出来事は。
「なあ」
 頬杖をはずして体を伸ばすと、ハワードはメノリに再度声をかけた。メノリの返事はなかったが、かまわずハワードは続きを言った。
「いいじゃないか別に。ベルがルナのこと好きでもさ」
 ぴくりとメノリの肩が跳ねた。視線は頑固に外に向けたままだが、それでもこちらを気にしている様子がうかがえる。
 やっぱり、それか。
 わずかなメノリの動きを見て取ったハワードは胸の中だけで指を鳴らした。
『不謹慎だ!』
 ベルがルナにプロポーズをしたのだと、ハワードがそれとは知らずに皆に披露してしまったとき、メノリはそう尖った叫びをあげた。しかも余計な茶々をいれたハワードは、その直後メノリに思いっきりにらまれている。
 それからはアダムのことがあり、彼女も怒ったままではいられなかったようだが、こうして落ち着いた時間があるとやはり納得できないものがあるのかもしれない。やたらお堅い優等生の彼女のことだ。惚れた腫れたの恋愛ごとは浮ついた余計なこととしか思えないのだろう。
 まあ、メノリもまだまだ子供だって事か。
 勉強だけできてもしょうがないよな、とハワードはメノリが聞いたら激怒では済まないようなことを考えた。自分のこともはるか上段に棚上げしているのだから、チャコあたりが聞けばあきれ果てるに違いない。しかし本人はいたって真面目に話を続ける。
「いーじゃないか。誰が誰を好きでも。恋愛ってのは本来自由なものなんだぜ? 人の心に枷はつけられないって知らないのか? もっとこう、心を広く持ってだな、仲間の思いを受け入れてやる度量を持つべきなんじゃないのか?」
 両手を広げて、まるで舞台の中央で独白をする俳優のように高らかに、ハワードは自説を述べた。ベル本人が聞けばまた顔を赤らめて逃げ出したろうし、シンゴあたりはよく言うよと突っ込んだろうか。そもそもベルのプロポーズを冷やかした上に調子に乗って余計なことまで言ったのは、他でもないハワードなのだから。
 しかし、今のハワードはベルの思いを茶化しているわけではなかった。あの時のことはもう十分反省している。人が人を想うことは素晴らしいことなのだと、今は素直にそう思っているのだ。特にベルの恋の後押しをしようとか考えているわけではないが、今後からかったりするつもりは毛頭なかった。正直メノリの頑なさをおもしろがっている気持ちは多少あるのだが、つついてみたくなる衝動はぐっとこらえる。恋愛はデリケートな事柄なのだ。あくまで真摯に対応しなければならない。昼間の出来事で、ハワードはちゃんと学習したのだ。
「だからもう機嫌直せよ」
 ベッドの上であぐらをかいたままの姿勢ではあったが、ハワードは精一杯丁重にメノリをなだめるべく言葉を継いだ。そうしてこちらを見ないままのメノリに、あくまでハワード基準でだが、最大限の誠実な視線を送る。
 そうして待つことしばし。固く結ばれたままだったメノリの唇がゆっくりと動いた。
「本当にそう思うか?」
「ん?」
 きつい反駁が来るだろうと身構えていたのだが、予想に反してメノリの口調は穏やかなものだった。しかも先ほどと違って装ったものではない。意外な展開に驚いて軽く目を見開いたハワードの前で、メノリはゆっくりと振り返った。そうしてハワードの顔に合わせてきたその視線も厳しいものではなかった。むしろどこか不安げなたよりない光をたたえていて、ハワードは思わず息を呑んだ。
「本当にいいと思うか? 誰が誰を好きでも?」
 だからメノリのその問いに対するハワードの答えは少し遅れてしまった。メノリの顔から視線をはずせなかったのだ。
 しかしメノリを説得していたのだと思い出し、ハワードは勢いよくうなずいた。返事の遅れを取り戻すべく、大きく何度も上下に首を振る。そして口を開くと、力強くメノリの言葉を肯定した。
「ああ。いいと思うぜ。人を好きになるのっていいことなんだろ?」
 するとメノリの表情がゆるんだ。笑顔と言い切れるほどにはならなかったが、口元が確かにほころんでいる。そうしてメノリは静かにそうかと言った。
「そうか。いいことか」
 メノリはまつげの動きがわかるほどそっとまばたきをしながらそうこぼすと、窓の方に顔を戻してしまった。先ほどと同じように船室の窓から外を眺める。それきりハワードのことなど忘れたかのように微動だにしない。
 けれどハワードは満足げに口の端をあげた。もうハワードには視線を向けていないメノリの横顔から、尖った雰囲気が消えていたからだ。
 勢いをつけてベッドの上に転がる。そうしてハワードは大きくのびをして目を閉じた。
 非常にいい気分だった。きっととてもいい夢が見られるだろう。

終わり

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