第三十九話 どうしてそんなものが

「話してみろ、何があったんだ」
 一人になろうとする彼女のところまでわざわざ行って、そんなことを尋ねたのは、浮かない顔の彼女をそのままにはしておけなかったから。
「ナノマシンかもしれないな」
 彼女が気に病んでいる出来事を聞き出し、自分なりにその原因を分析した。
「一度チャコに調べてもらった方がいいな」
 そうして次にどうすればいいか提案することはできたけれど。
 それで、良かったのだろうか。船室へ戻る彼女の顔は曇ったままだった。

 ルナを見失ったあの嵐の日が嘘のように、あれから穏やかな日が続いている。明るい日差しに静かな海面、追い風も申し分ない。
 しいて問題をあげるならば照り返しが眩しいことだろうか。前方の波が輝く様にカオルはやや目を細め、操縦桿を握り直した。
 仕事の分担は基本的に平等に振り分けられているが、得手不得手等を考慮しているため、完全に平等に分けられているわけではない。料理上手なシャアラは料理係をすることが多いし、シンゴとチャコはほとんどオリオン号の整備に回る。カオルはもちろん操縦席に座っている時間が一番長い。
 今日も操縦席に座るカオルが抱えていたのは、後悔にも似た感情だった。 
 あれから三日。ルナの元気が戻らない。
 分担した仕事はそつなくこなしているけれど、休憩時間はほとんど船室にこもっている。誰かと話すときは笑っていても、一人になればすぐに顔を曇らせる。それでいて、弱音は吐かない。
 ともすれば全身から噴き出しそうになる苛立ちを、カオルは隣に座るシャアラの目を気にすることでなんとか抑えていた。
 ルナの抱えている不安を、無理矢理聞き出したりするべきではなかったのだろうか。
 その不安の原因を特定したのは、余計なことだったのだろうか。
 カオルのしたことは何の役にも立たなかった。ルナの不安は解消されるどころか、かえって具体的な形を持って彼女を脅かしている。
 彼女の負担を取り去ることのできなかった自分のふがいなさに憤りながら、しかしカオルは完全に後悔しきることもできずにいた。何もしないままでいることも、自分にはきっとできなかっただろうとわかっていたからだ。
 晴れた日の空よりも明るい瞳が曇ったままでいるのを、ただ見ていることはできなかった。何かをせずにはいられなかった。自分を救ってくれた彼女に、何らかの形で報いたかった。
 だからあの時、一人になろうとする彼女の元へ行かなければよかったとは思わない。けれど今の状況では行ってよかったのだと言い切ることもできない。
「なんかこうぱーっとルナが元気になるようなことあらへんかなあ」
 操縦席の隣でチャコがこぼした言葉が、カオルの胸に重い。
 どうすればよかったのだろう。そしてどうすればいいのだろう。
 けれど、それを思いついたのは、結局カオルではなかった。
 ルナを元気づけるためにパーティをすると聞かされて、まずカオルの胸に広がったのは確かな安堵だった。きっとルナは喜ぶだろう。元気に、なるだろう。久し振りに彼女の本当の笑顔が見られるかもしれない。
 しかしその一方で嫉妬にも似た無力感をも感じていた。やはり自分ではルナの力にはなれないのだと、それが辛い。恩人である彼女のために、自分ができることは何もないのだろうか。
 皆がパーティーの準備に追われている中、カオルは変わらず操縦席にいた。この船は自動操縦にもできるとはいえ、やはり長時間操縦室を空にするわけにはいかない。準備が整ったら呼びに来るとシャアラに言われて、カオルは操縦桿を握り続けている。一人になった操縦席なら、募る感情をそのまま表に出すことをためらう必要はない。しかしカオルは固い表情のまま、ひたすら前を見続けた。

 空の色が夕暮れのそれに近づいてきた。
 晴れない気分を抱えながら、そろそろだろうかとカオルが考えていると、チャコがひょこりと顔を出した。入り口から手招きをしてカオルを呼ぶ。
「カオル、ちょっとこっちに来てくれへんか」
「準備が終わったのか?」
 尋ねたカオルにチャコは首を振った。
「いいや。最後の仕上げが残っとるんで、カオルにも手伝うてほしいんや」
「しかし……」
 操縦席を離れるわけにはいかないとカオルがためらっていると、チャコはずかずかと操縦室に入って来て、お構いなしにカオルの手を引っ張った。
「ええからええから。ちょっとだけや。今は波も穏やかやし、少しの間自動操縦にしたかて問題あらへん」
「お、おい」
 勝手に自動操縦に切り替えたチャコの勢いに押されるまま、カオルは甲板に出た。もう日も暮れ始めた時刻、潮風もはらんでいた熱を手放し始め、ずいぶんと涼しくなっている。
 その風が髪をゆらす感覚が心地よくカオルの表情がいくぶんゆるんだ。そうして改めて辺りを見ると、何やら大きな荷物が広がっていた。仲間達の賑やかな声も聞こえてくる。
「あ、チャコ。カオル連れてきてくれたんだね」
 こちらを向いたシンゴの手にはなぜかハケが握られていた。
「ハワード、もっとちゃんと引っ張れ」
「うるさいなあ、ちゃんとやってるだろ」
 言い争うメノリとハワードの手には大きな布。それを見たカオルの目が丸くなる。カオルの目がおかしくなっていなければ、あれはオリオン号の帆ではないだろうか。
 マストを見上げると、案の定裸のそれが堂々とそびえ立っていた。
「劇のクライマックスで使おうと思てんねん」
 どういうことかと無言で問いかけると、チャコはいたずらっぽく笑いながらそう答えた。
 帆がなければオリオン号はほとんど進まない。どうりで自動操縦で構わないと言うはずだ。それにしても一体何にどう使うのか。
 パーティで劇をするとは聞いていたが、内容までは知らされていなかったカオルが目を白黒させていると、ハケと塗料を抱えたシャアラがやってきた。
「これにね、お花の絵を描こうと思うの」
 輸送船が墜落したとき、積み荷のほとんどは燃えてしまったのだが、それでもその途中で落下したものや燃え残ったものはカオル達の生活をずいぶん豊かにしてくれた。釣り竿についたリールもそうした部材を利用したものだ。塗料もハケもその中にあったもので、オリオン号の塗装をし直す時にも使い、何かの時のためにとこの航海にも持ってきたのだが、まさか帆に花の絵を描くのに使うことになろうとは。
「カオルにも描いてもらおうと思って」
「オレにも?」
 渡されたハケを反射的に受け取ってしまったが、その姿勢のままカオルは固まってしまった。絵などまともに描いたことがない。
 どうしたものかとハケを手に、広げられた帆の前で途方に暮れていると、すでに描き始めていたアダムが手を振ってカオルを呼んだ。
 呼ばれたことでとりあえず体は動いた。そうして一応アダムの隣に座ってみたものの、やはり手が動かない。難しい顔で帆とハケとをにらみつけているそんなカオルに、アダムは屈託無く笑って、明るく言った。
「ルナに元気になってもらうための絵だもん。みんなで描こうよ」
 弾かれたように顔が上がった。知らず視線がアダムへ向く。
 まばたきすら忘れたカオルに、アダムは顔中で笑って応えてくれた。明るい色のついたハケを、カオルの顔の前で楽しげに揺らしてみせる。それでも目を見開いたまま動かないカオルの前で、アダムは帆に向かってハケを動かし、鮮やかな花を描き上げていった。活き活きと動くアダムの様子に、しばらく呆然としていたカオルの口が少しずつほころんでいく。
 アダムの言葉で固くなっていた体と、そして思考が溶けた。視界を覆っていた黒い布をいきなり取り払われたかのような、それは爽快な感覚だった。
 ルナのために。
 みんなで。
 自然な笑みがカオルの口からもこぼれる。何を一人で力んでいたのだろうと少し前までの自分がおかしくて、カオルは笑った。
 アダムの隣でカオルも帆に顔を向け、近くにあった塗料にハケを浸した。狭い操縦席で強ばっていた体と呼吸が嘘のように楽になっている。もうすっかり肩の力が抜けていた。
 
 ルナはひとりではないし、カオルもまたひとりではない。ルナのことを心配しているのはカオルだけではないのだ。ルナのために必要なこと全てをカオルが背負う必要はなく、そもそも最初からそんなことができるはずもなかった。 
 何をするのも、みんなでやればいい。カオルにできないことは、他の仲間がしてくれる。カオルはカオルにできることをすればいい。

 すっかり軽くなった腕を動かし、白い帆の上に塗料を含んだハケを滑らせる。一際大きな花が、そこに咲いた。

終わり

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