第三十八話  私、負けないよ

 海がこれほど色々な顔を持っているとは思いもよらなかった。
 出航した直後は、あがる波しぶきと陽光の反射に、海ってなんて綺麗なんだろう、とそう思った。
 けれどすぐにその波が厄介なのだと知った。常に揺れ続ける船内で、すぐに目が回り出した。それが船酔いの症状だということは教えてもらったけれど、そんな知識は何の役にも立たなかった。
 常に胸の奥に何かがつかえているようで、しかもそれが動いているようで、その違和感は何をしても消えてくれなかった。のどから何かが飛び出してきそうなのになかなか出てこない。吐ければいっそ楽になるのかもしれないと思ったが、吐いてもやっぱり楽にはならなかった。
 そうして、水でも食べ物でも口に入れて飲み込むことができなくなった。目が回って立つこともできなくなった。体が動かず、ずっとベッドに寝ているのに、全然気分が戻らない。
 海って怖い。止まってくれない揺れに、そう思った。
 けれど、本当の海の怖さはそんなのものではなかった。
 嵐が来たのだ。
 みるみるうちに暗くなった空から大粒の雨が落ちてきた。風もどんどん強くなって、右に左にもみくちゃにされた。さっきまでの揺れは揺れなどではなかったのだと、止まっていたのだと思えるくらい、船は風と波に振り回された。しかもさらに高くなった波と激しい雨風のせいで船内に水が入ってきた。そのまま放っておいたら沈んでしまう。
 それでも、みんなで頑張ったら乗り越えられるのだと思ったのに。
 海がどれほど怖いものでも、みんながいれば大丈夫だと思ったのに。
 海は本当に恐ろしいものだったのだ。
 ルナが飲み込まれてしまった。
 大きな揺れと波が、ルナを連れて行ってしまった。
「ルナぁー!!!」
 みんなと一緒に力の限り叫んだけれど、ルナの姿はすぐに波の間に見えなくなってしまった。それなのに、船も海に捕まって、ルナを探しに行けなかった。
 海ってなんて残酷なんだろう。
 暗い暗い海面に、心からそう思った。
 嵐が去った後は、海はまた静かになった。さっきまでの激しさが嘘のようだ。
 あまりにひどい揺れを経験してしまったので、今の揺れくらいでは苦にならなくなった。船の甲板に立っていても、もう目眩はしない。
 ただ、ルナは見つからない。みんなで必死に探しているのに、ルナはまだ見つからない。
 海ってなんて冷たいんだろう。
 けれど。
「ねえ、ルナは死んじゃうの!?」
「ううん。ルナは死なない!」
「こんな嵐くらいでくたばるルナとちゃう!」
 あの嵐の中で、自分の恐怖をきっぱりと否定してくれた仲間の言葉を思う。
「信じるんや!」
 不安をかけらもこぼさなかった、強い言葉と瞳の力を思い出す。
 そうだ。たとえどれほど海が恐ろしくて残酷で冷たいものなのだとしても、まだあきらめたりはしない。海の怖さは嫌と言うほど思い知ったけれど、ルナの強さもまたとてもよく知っているのだから。
 ――ルナ。ルナ!
 精神を集中してルナを呼ぶ。今はまだ何も感じないけれど。どこにルナがいるのか全くわからないけれど。

 でも、絶対見つけてみせるから。ボク、頑張るから。ルナも、ルナも頑張ってね。

 海がどれほど怖いものでも、みんなで頑張ったらきっと乗り越えられるはずだから。

 どこまでも続く水平線に目を凝らす。
 海は穏やかな顔をしていた。

終わり

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