第三十七話  弱音を吐くな

「無重力と低重力は全然違うものだってちゃんと教わっていたけれど、やっぱり実際に体験してみないとわからないものだね。一定方向への引力がないのがこんなに辛いものだなんて思わなかったよ。でも宇宙酔いは一回味わっておけばもうならないと言うからもう安心だね。あ、でも、それは無重力に居続けた場合だったかな。こんなふうに一度戻って、また無重力になったら酔ってしまうのかな。乗り物酔いだったら何度でもなるよね。あれ、今日の訓練で気持ち悪くなったのってどっちなんだろう。無重力状態に放り出された後で、ぐるぐる振り回されたわけだから……、それとも単にGがきつくて辛くなっただけなのかな?」


 青白い顔でそこかしこの床でのびている学友に水を配り声をかけ、甲斐甲斐しくまめまめしく世話をやきながら、よどみなく言葉を紡ぎ続ける少年の頬は薔薇色で、彼自身の言葉によればつい先ほどまで『気持ち悪かった』ということなのだが、その名残はもうどこにも見られなかった。
 健やかな少年はついと横を向いてその青い瞳を柔らかく細めた。

「でもカオルはさすがだね。全然顔色が変わらない。ずっと大丈夫だったのか? うらやましいな」

 カオルと呼ばれた少年はその賞賛の言葉に一瞥もくれず、黒い髪を揺らすことすらせず、転がっている連中に袋やタオルを黙々と配り続けた。
 青い瞳の少年は、無視された格好になったわけだが、特に気を悪くしたふうもなく微笑みを絶やさぬまま、動くことも声をあげることもできずに青い顔でつぶれている友人達に向き直った。
 カオルは青い瞳が自分を映さなくなってからようやくそちらを向いた。ほんの少し顔を動かして口元は固く引き結んで。そうして数瞬、青い瞳も薔薇色の頬も見えない背中を見据えると、おもむろに作業を再開した。
 その一連の動作一つ一つも、またタオルを配る手つきも、普段のカオルからすれば非常にのんびりしたものだったのだが、それを気にとめる者はいなかった。なにしろ十数人が集まっているこの部屋で、まともに動いているのは、彼ともう一人しかいなかったので。
 カオルがいつにも増して固く口を引き結び一言も発さないでいることも、表情がやたら険しいことも、誰も不審には思わなかった。彼の愛想がないのはいつものことだったので。
 おかげでカオルが一秒でも早く自室に戻りたいと思っていることは誰にも悟られずに済んだ。口を開かないその理由が、いつものように素早く動かないその理由が、そんなことをすれば戻してはいけないものが胸をせり上がってしまうからだというそのことを誰にも知られずに済んだ。
 ただ、だからと言って彼の気分が晴れるわけではない。

 にこやかに仲間を気遣う青い瞳の少年が部屋に戻らないから。

 カオルも部屋には戻れなかった。

終わり

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