姿勢制御装置を渡しさえすれば、脱獄囚といえどそうひどいことはしないのではないか。
ポルトに言下に退けられたあのときの自分の考えが、どれほど甘いものだったのか、シャアラは目の前の光景に嫌と言うほど思い知らされていた。
離陸が間に合わず脱獄囚がオリオン号に乗り込んできたとき、彼らは隠れているシャアラとアダムに気づかず通り過ぎていった。ただ目の前を歩いていったというそれだけのことでさえ、彼らの発する怒りの強さにシャアラは動くことができなかった。
彼らが戻ってきたときの恐怖はその比ではなかった。カオル達を追ってきた脱獄囚は二人だけであったが、人数が減ってもその怒りの凄まじさが衰えるわけではなかった。
これが殺気というものなのだろう。物語の中でしか知らなかった言葉の意味が、今は全身に突き刺さるようだった。
カオルとチャコが脱獄囚に向かっていった。
怖くないのだろうか。相手は武器を持っているのに。あんなに強そうなのに。
シャアラは怖かった。恐ろしくてたまらなかった。アダムと二人、荷物の陰に隠れて、シャアラは必死で震えと戦っていた。
カオルもチャコもとても頼りになる仲間たちだったが、凶悪犯の相手が務まるはずもなかった。チャコが捕まり、次いで響き渡ったカオルの悲鳴にシャアラはびくりと体をすくませた。
なんとかしなくては。カオル達を助けなければ。
でも、どうすればいいの。
あまりのことに、もう怖いという言葉すら出てこない。
誰か助けて、ルナ!
無意識に名前を呼んで、そっと開いた目に映ったのは大きな機体だった。
これならどうにかなると思ったわけではなかった。恐怖が消えたわけでもなかった。
けれどシャアラはその機体に乗った。
何もせずにはいられなかったし、それに、わかったことがあったのだ。
その名を呼んだときに。
「すごいなあ。頑張ったのね、シャアラ」
シャアラの話を聞いたルナの、それが最初の言葉だった。
浜辺でルナ達と別れてから何があったのか、その全てをルナに話すことができたのは、ずいぶん時間が経ってからのことだった。あれから、オリオン号の墜落、遺跡との衝突に爆発と、あまりにも大きなことがありすぎて、ゆっくりと話す余裕が時間と気持ちの両方になかったのだ。
二人で食料探しに出たその道行きに、シャアラから話を聞いたルナはまず、大きな目をさらに大きくまんまるに見開いてぽかんと口を開けた。そしてすぐにぱっと表情を切り替えて、陽の光のように明るく笑うと、そう言ってシャアラの健闘を称えてくれたのだった。
「そんなことないわ。あのときはただ夢中だっただけで。それに結局何もできなかったし」
確かに頑張ったとは言えるのかもしれない。けれどすごいと言ってもらえるようなことではないと思う。
だからシャアラは急いで両手を横に振りながら否定したのだが、ルナの笑顔は変わらなかった。
「そんなことないわよ。シャアラのおかげでみんな無事だったんじゃない。充分すごいわよ」
重ねて贈られた賛辞と笑顔がまぶしくて、シャアラは赤面した。けれど今度は否定することはしなかった。面はゆい気分は一方で、やはり誇らしくもあったからだ。
みんなが助かったのは自分の力によるものだ、とまでは到底思えなかったが、ルナに褒めてもらえると確かにすごいかもしれないとは思えた。
いや、実際すごいことなのだこれは。
シャアラは思い直した。
役に立ったかどうかはともかくとして、臆病な自分にあんなことができたなんて、やっぱりすごいことなのだ。
そう思い直したシャアラは照れくさそうに微笑みを返して、言った。
「そうね。すごいのよね」
「うん。すごいすごい」
ルナも微笑みと、そしてうなずきを返してくれた。
屈託なく笑うルナはやっぱりまぶしかった。ああ、この笑顔だ。とシャアラは思った。みんなこの笑顔のおかげなのだ。
輝く陽の光を受けたシャアラは少し目を細めて、でもねと言葉を継いだ。
「でもね、みんなルナのおかげなのよ」
「私の!?」
ルナは先ほどのように目を丸くして首を傾げた。
「って何が?」
シャアラの話法についていけず、ルナはしきりに首をひねっている。シャアラはくすりと笑みをこぼしすと、さらに続けた。
「だから、わたしがあのときすごかったのは、全部ルナのおかげなの」
「どうして?」
私はそこにいなかったのにと、ルナの思案顔は解けない。
ルナがわからないのも当たり前だとは思ったが、シャアラはそれ以上何も言うつもりはなかった。説明する代わりに、内緒と人差し指を立てて口元に持っていくと、ルナは口をとがらせた。
「もう! 話を途中で終わらせるなんて、ずるいわよ。シャアラ!」
抗議の声をあげて、ルナは拳を振り上げシャアラをぶつ真似をした。シャアラはその拳の下をするりとくぐり抜けて、もう一度内緒と言って駆けだした。
「それより、急ぎましょう。早く食料を探さないと日が暮れてしまうわ」
半分だけ振り向いて、置いてきたルナにそう声をかける。ルナはまだ拳を上げたまま、ずるいとくり返しながら追いかけてきた。
追いつかれても、ルナはシャアラを無理に問い詰めるようなことはしないだろう。そうとわかっていたけれど、シャアラは足を速めてルナとの間をすこし空けると、声には出さずにルナに語りかけた。
一緒にはいなかったけれど、あれは全部ルナのおかげなの。
だって、立ち向かう勇気をくれたのは、ルナなんだもの。
心の底から恐ろしさに震えていたあの時。なんとかしなくちゃと思いながら、どうすればいいのかわからなくて動けなかったあの時。
無意識にルナの名前を呼んで、そうして唐突にわかったことがあった。
ああ、ルナもきっと怖かったんだ、と。
ハワードに意地悪をされたとき。工事現場で火に囲まれたとき。避難シャトルが取り残されてしまったとき。海蛇や人食い植物に襲われたとき。
今まで何度もルナに励まし、助けてもらった。シャアラが怯えて泣き叫んでいるときも、ルナは必ず笑ってくれた。
ルナはなんて強いんだろう。
ルナに助けられるたび、シャアラはいつもそう思いながらルナを見上げていた。
ルナには怖いものがないのかもしれない。そんなふうに思ったことさえある。
でも、それは違うのだ。
全部ではないかもしれない。けれど、ルナにだって怖いと思うときはあったに違いない。ルナはただ、それをシャアラに見せなかっただけなのだ。一言も怖いとは漏らさずに、いつだって、シャアラとみんなを守ってくれていたのだ。
ルナはなんて強いんだろう。
改めてシャアラはそう思う。改めてルナの強さに憧れて、自分の弱さを思った。
でも、だからこそシャアラはあのとき動くことができたのだった。
わかったことがあるからだ。
怖くてもいいのだと。
怖いと思ったままでも、動くことはできるのだと。
恐怖を感じることは弱さじゃない。大切なのは、恐怖に負けたままでいないこと。
「やっと追いついた〜。シャアラ、張り切りすぎよ〜」
後ろから声がして、とん、とルナがシャアラの背中にかぶさってきた。首筋にあたるルナの髪がくすぐったくて、シャアラは声をあげて笑った。
「ルナ」
「なあに?」
シャアラは振り向かずに前を向いたまま、大きく口を開いて続けた。
「わたし、がんばるね」
今までずっとあなたがわたしを守ってくれたように、これからはわたしもあなたを守るから。
ルナはシャアラの背中から降りてシャアラの隣に並ぶと、シャアラの顔をのぞき込んできた。
「シャアラ、今日は本当にはりきってるのね」
そしてルナは高く拳を突き上げた。
「よーし。私もがんばるぞー!」
「がんばるぞー!」
ルナの口調の真似をして、シャアラも同じように拳を突き上げる。
続いて重なった二人の笑い声が、その後を追うように空へ登っていった。