第三十一話 俺たちはきっとやれる

「おかあさん、えほんよんで」
 舌足らずな声に振り向くと、息子がお気に入りの絵本を差し出していた。
 あちこちを旅する象が雪国を訪れたときにしもやけになり、くつやさんに赤いブーツをプレゼントされるという内容のその本を、息子はとても気に入っていて、毎日読んでくれとせがみにくるのだった。
「おかあさん」
 差し出した絵本をすぐに受け取ってもらえなかったからだろう。声を苛立たせて、息子はなおも絵本を高く差し上げてきた。
 絵本を掴んでいるのと反対側の手には、これもまたお気に入りの象のぬいぐるみを下げている。もともと明るい空色だったそのぬいぐるみは、息子が片時も離さないので、少々薄汚れた暗い色合いになってしまっている。母親としてはすぐにでも洗濯機に放り込みたいのだが、息子が承知しないのでそのままになっている。隙を見て洗うつもりではいるのだが、なかなかその機会に恵まれない。
「おかあさんってば!」
 とうとうぐずりだした息子が泣き出さないうちにと、絵本を受け取り、親子してすっかり暗記してしまった物語を読み始める。
「あふりかうまれのぞうさんが……」
 小さなひざの上に空色のぬいぐるみを抱え込んで、息子も母の声に合わせて読み上げていく。覚えているなら一人でも読めるだろうに、それでも必ず読んでくれとせがみにくるのだ。
 けれどそれをわずらわしいとは思わない。今は小さなこの子も、きっとすぐに大きくなる。こんなふうに自分にくっついてまわるのも、ぬいぐるみを手放さないのも、あとほんの少しの間だろう。その貴重な時間を、無駄にできるはずはなかった。
「あかいかわひもついている、ぴかぴかブーツよくにあう」
 そうして今日も、二人で同じ本を読む。

 

 

「本気かい? ほんとにそんなんで、あいつらが出てくるのかい?」
 追いつめたガキどもに、あと一歩のところで逃げられたのは、突然現れた獣の群れのせいだった。確かに、絶妙のタイミングではあったが、野生の動物のすることに意味などあるのだろうか。きっと単なる偶然だろう。
 ジルバはごく真っ当にそう考えたので、ブリンドーの提案にうなずけなかった。
「ああ、きっと奴らはでてくる。ほってはおけないさ」
 けれどブリンドーにはその獣があのガキどもとつながっているという確信があるようだった。木立の向こうに見えかくれする獣の姿を指さして、ジルバにこっちに追い込んでくるようにと指示をした。
「まあ、いいけどさ」
 納得はしていなかったが、ブリンドーと本気でやりあうつもりはなかった。ジルバは肩をすくめながら獣の所へ向かった。ナリが小さいので、おそらくまだ子供なのだろう。ムチを何度か鳴らしてやっただけで怯えたそれをブリンドー達の所まで追いやるのは、簡単な仕事だった。
「おいボブ、ちょっとこっちへ来い」
 ガキどもに通信を試みていたボブを呼んでその意図を説明する。
「はあ? それでどうにかなるのか?」
 案の定、ボブも首をひねったが、ブリンドーに逆らうことはやはりなかった。悲しげな声を上げて嫌々をするように首を振る獣を押さえながら、その声を通信機で拾い、ガキどもへ呼びかける。

「まあ、見てろ。ガキってのはこの手の動物を見捨てられないもんだ」

 この後の展開が手に取るように見えたブリンドーは口の端を薄く持ち上げた。
 その脳裏にはもう、空色のぬいぐるみも赤いブーツも、まるで残ってはいなかった。

終わり

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