第二十二話  さよならはいやだ

 結婚を異文化交流だと表現したのが誰なのか、ルナは知らない。
 けれど、誰が言ったにせよ、現在新婚ほやほやのルナは、この言葉に大いに共感を覚えていた。
 まったくもってその通りだと。
 初めて出会った中学生の時から、もう10年以上ものつきあいがあるというのに(ちなみにそのほとんどが友人としてつきあった期間になる)、まだお互いについて知らないことがこんなにもあったのかと、毎日が驚きの連続だ。
 料理の味付けからものの片づけ方まで、細かいことにそれまでの暮らしぶりが出る。例を挙げればきりがないが、例えば朝何時に起きて何を食べるか、さらには顔を洗うのは朝食の前か後かという細かいことにまで、お互いの育ちの違いを感じてはルナはいちいち驚いていた。サヴァイヴで一緒に暮らしていたというのに、何も見ていなかったのだなと、自分のうかつさをしみじみと感じてしまう。
 しかし、幸いにというべきか、ルナの夫となった人物は、それまでの自分の生活習慣に拘りがあるわけではないらしく、ルナが彼と違うやり方をしていても文句を言われたことはない。驚いた顔も見せずただルナのやり方にすんなりと合わせてくれるので、ルナは異文化交流の中で不自由を感じたことはなかった。
 けれど、ただ一つだけ、拘りを見せない彼が拘ったものがある。
 これでなければ駄目だと、彼だ断固として譲らなかったもの、それは「風呂」だった。
 コロニーにおいてバスルームとは一般に「自動洗浄ユニット」をさす。人一人が立って入るだけで一杯になる箱形の機械に裸で入れば、霧状になった洗浄成分が吹き付けてきて、頭のてっぺんからつま先までくまなく洗い上げ乾燥までしてくれるというものだ。水が貴重な資源であるコロニー生活においては、節水対策も兼ねて広く普及している。
 サヴァイヴでは川や湖の水で体を洗い、シャワールームまで作ったが、コロニーではそうしたシャワールームがある家というのは極少数派だった。シャワーは生活用品ではなく、水が体を流れる感覚を楽しむためのむしろ嗜好品として、一部の好事家に愛用されるだけとなっている。湯につかるための浴槽ともなれば、さらにその上を行く物好きか、財力か趣味を誇示したがる大金持ちしか持っていない。
 いない、のだが、ルナと彼の暮らすこの家には、立派な浴槽の設置された本来の意味通りの古式ゆかしい風呂場があった。彼曰く、一日の終わりにたっぷりとはったお湯につかって手足を伸ばさなければ疲れが取れない、のだそうだ。
 体を洗うなら自動洗浄ユニットの方がよほどきれいになる。浴槽一杯になみなみとお湯をはるなんて水とエネルギーの無駄遣いだ。それに彼は一度風呂に入ると一時間は出てこない。せっかく新婚なのに、これは時間の無駄使いでもあるんじゃないだろうか。
 最初はそう思っていたルナだったが、首をひねりながらも何度かその「お風呂」に入るうちに今ではその心地よさにすっかりはまっていた。熱いお湯にざぶんとつかってすぐに出てくる爽快感もいい。ぬるめのお湯にゆっくりつかってのんびりするのもいい。お風呂に入らなければ一日が終わった気がしないという彼の言葉に大いにうなずく。まったくもってその通りだ。
 結婚は確かに異文化交流だ。今まで知らなかったことが次から次へと出てきて、全く飽きることがない。楽しいことや面白いこと心地のいいことはお互いに教え合って共有して、面倒なことや面白くないことはお互いに改善して譲り合って。そうでなければ結婚した甲斐がないというもの。
 ルナはこの異文化交流を存分に満喫していた。
 今日も彼の帰宅に合わせて浴槽にお湯をはる。鼻歌交じりで準備をしていると彼が帰ってきた。ルナは笑顔で出迎える。
「おかえりなさい。お風呂、すぐに入れるけどどうする? 夕飯の前に入る?」
 彼はたいていうなずいてすぐにお風呂に入る。今日もそうだった。ありがとうとルナをねぎらって風呂場へ向かったその背中にルナはさらに付け加えた。
「私もご飯の前に入りたいな。一緒に入っていいよね?」

 がらがらがっしゃん!

 何かが崩れたような大きな音が聞こえてきたが、ルナは気に留めることなく、鼻歌交じりで自分の着替えを取りに行った。

終わり

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