第十九話  コノコヲ…タノム…

「ここから脱出しろ、と?」
「そうだ。今ならまだ、お前達はナノウイルスに感染していない。今しかないんだ」
 それは突然の提案だった。しかし彼は驚かなかった。彼自身、どこかでそれを望んでいたからだ。
「でも……、この大変な時に私たちだけが?」
 同意せずに問いを返したのは彼の妻だったが、その声も弱かった。彼女もまた、できることならそうしたいと望んでいたのだろう。
 そんな二人の気持ちはきっと漏れてしまっていたのだ。仲間達はその提案を取り下げなかった。言葉を尽くして二人の説得を続けたのだった。
「お前達に何かあったら、アルデュラムギェットはどうなる。我々のことはいい。お前達だけでも生き延びるんだ」
「千年後には宇宙に出た同胞が帰還する。サヴァイヴの目の届かぬ場所で、アルデュラムギェットと、その時を待つんだ」
 最愛の息子のことを持ち出されて、ためらっていた彼らもようやくうなずいた。自分の命はともかく、息子だけでも生き延びられる道をとずっと考えていた。そしてそれは、彼らだけではなく、仲間達みんなも考えてくれていたのだ。
 荒廃した環境を元に戻そうとする戦いの中で生まれた最初の、そして最後になってしまった唯一の子供。その未来を願う思いは、直接の両親である彼らだけのものではなかった。アルデュラムギェットは残された人類みんなの子供であり希望でもある。ならばそれを守ることが、仲間の思いに応えることになるのだろう。
 それは、ただ子供を守りたいだけの、親としてのエゴなのだということを充分に自覚しながらも、彼は仲間の提案を受け入れることにしたのだった。深い心からの感謝と共に。
「なに、千年も待つ必要はないかもしれないさ。我々がサヴァイヴを抑えることができれば、その時は迎えに行くから」
「……待っている」
 笑顔でそう言ってくれた仲間と、彼は固く手を握り合った。
 その言葉の気休めにもならないほどのはかなさを、言った方も言われた方もわかっていたけれど、だからこそお互いの手を握りしめる力は強かった。
 しかし、彼らが息子と共に行くことはなかった。
 脱出の準備がもう少しで整うというところで、彼らもまたナノウイルスに感染してしまったのだ。
 ナノウイルスに感染した自分たちが一緒に行けば、どこへ逃げたところでサヴァイヴに居場所を知られてしまうだろう。
 アルデュラムギェットと共に未来へ行く道は閉ざされてしまった。
 アルデュラムギェットは、一人で行かなければならない。
 けれど、たった三つの子供を一人で行かせて、それでこの子が生き延びることはできるのだろうか。たとえ千年サヴァイヴに見つかることなくいられたとしても、宇宙に逃れた同胞が戻るとは限らない。コールドスリープも永遠にはもたない。たとえどれほど厳しい時代でもあっても、この惑星に生きるものがこの子一人しかいないのだとしても、目覚めなければならないときがくるかもしれない。
 この場を生き延びさせたとしても、この子が幸せに生きられるという保証はどこにもないのだ。
「一人で辛い思いをさせるくらいなら、最期まで一緒に……」
 そう言って泣き崩れた妻を、彼はいさめたりはしなかった。それは、妻の心からの言葉だということはわかっていたが、心の全てではないこともまた、わかっていた。彼も同じように考えていたからだ。

 この子だけでも生かしてやりたい。たとえどれほど小さな可能性でもそれに賭けてみたい。
 この子だけを行かせることはできない。ずっと一緒に、最期まで一緒にいてやりたい。

 決して並び立つことのない二つの願いは、けれどどちらも彼らの本心だった。どちらも本当の願いだった。それでも、時は待ってくれない。二人はそのどちらかを選ばなくてはならないのだった。

 

 

 たった一人で行かなくてはならない幼い息子にしてやれることは、切ないほどに少なかった。これで大丈夫だとは到底思えなかったが、それでも彼らは息子を送り出した。息子の幸せを保証するものは何もなかったが、それでも彼らは結局、息子からその未来を奪うことはできなかったのだ。
 この子を頼む。
 願う相手を知らないままに、それでも願うことしかできない自分の無力を呪いながら、二人はアルデュラムギェットを乗せた船が行った先を、ただひたすらに見つめ続けた。

終わり

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