第五話  シャアラ、負けちゃダメ!

 激しい衝突音。きしむ船体。シャアラの悲鳴。
 あふれかえる音の中で、何よりも鮮やかに耳に焼き付いたのは。

「パパーっ!!!」

 唐突に上がったハワードの悲鳴だった。

 

 次の日はよく晴れていた。霧も消えて明るい日差しが心地よい。
 昨夜の怪物は足跡を残していたが、その正体はすぐにはわかりそうにはなかった。しかし、それを追及するよりもルナ達には先にやることがあった。水と食料の確保と、通信機の修理だ。
 何をどのようにするべきか、次々に指示を出すメノリの姿は頼もしい。細かいところまでよく気がついていてすごいなと、ルナは素直に感心した。
「暗くなる前に戻ってくること。これだけは守ってくれ」
「了解」
 最後の指示に力強く答え、ルナはシャアラをそっと促して任された方向へ歩き出した。
 太陽は明るく、海は澄んでいる。浅い磯で魚の姿はすぐそこに見えるのだが、何度追いかけても手の中からすりぬける。何度目かの挑戦に失敗してひっくり返ったルナは、水をしたたらせた姿で一度シャアラの元に戻った。
「びしょびしょになっちゃった」
 うまくいかない状況を敢えて笑い飛ばして、明るく声をかけたのだが、シャアラは何も答えずにすぐに顔を伏せてしまった。シャアラのそんな様子にルナの表情も曇る。
 シャアラの元気がないことは、今朝からルナも気になっていた。
 無理もない、とルナも思う。重力嵐に始まって、避難シャトルでの大気圏突入や、海蛇の襲撃など怖い目に遭いっぱなしなのだ。おとなしい性格のシャアラには酷な状況だろう。
 心配ではあったが、大丈夫かと尋ねるのも悪いような気がする。かえって怖かったことを思い出させてしまうかもしれない。
「海っていいねえ。見ているだけで落ち着くなあ」
 だから当たり障りのないセリフで会話を始めたルナだったのだが、シャアラの気分を晴らすことはできなかった。シャアラから返ってきたのは、重い一言だった。
「どうせあたしたち、みんな死んじゃうのよ」
「……シャアラ」
 やはりそう簡単にシャアラの元気を取り戻すことはできないようだ。ルナの胸もふさがったが、落胆はしなかった。少しずつ励ましていけばいい。そうすれば、そのうちまたシャアラの笑顔が見られるだろうから。
 魚はあきらめて二人で森へ入った。なにかにつけシャアラに話しかけながらルナは足を進める。
「足元が悪いから気をつけてね」
 そう声をかけておいたのだが、沈んだままのシャアラには届かなかったのかもしれない。木の根が張りだした斜面で、シャアラが足を滑らせてしまった。
「シャアラ!!」
 名前を呼びながら慌ててルナは後を追った。手を貸してシャアラを立ち上がらせ服の泥を払う。けがはないようだったが、相当な落差を滑り落ちたのだから痛かっただろう。これでまたシャアラが落ち込まなければいいのだけど。
 ルナがそんな心配をした矢先、シャアラの顔がゆがんだ。
「どうしたの?」
 目にたまった涙にも気づいてルナが尋ねると、シャアラは今まで口をきかなかった分を取り戻すかのように高い声をあげた。
「あたし、帰りたい。うちに帰りたい!」
 ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、悲痛な声で訴える。
「お父さんとお母さんに会いたい。うちに帰りたい!」
「シャアラ……」
 ルナはシャアラの名を呼び、その肩に手を伸ばしてなだめようとするが、シャアラの叫びは止まらない。きっと帰れると励ましても、みんな怪物に喰われてしまうのだと泣きじゃくる。
「シャアラ!」
 ルナは大きく息を吸うと、シャアラに負けない大声で彼女の名を呼んだ。
 ルナの強い声に、取り乱していたシャアラも息を呑み、嘆く言葉も止まった。その一瞬をのがさずに、ルナはシャアラの肩に手を置くと、もう一度シャアラを励ました。
「シャアラ、負けちゃだめ」
 落ち着いた声で、確信に満ちた口調できっと帰れるとくり返す。
「私がついてるから。ちょっと頼りないかもしれないけどさ」
 口調を和らげてそう言ったところでシャアラが胸に飛び込んできた。ルナはシャアラの体をしっかりと受け止めて、もう一度、きっと帰れるからと優しい声でくり返した。
 シャアラも少し落ち着いたようだ。わずかながらシャアラが笑ってくれたことで安堵しながら、ルナには腑に落ちたことがあった。
 ああ、だからか。と思ったのだ。
 シャアラの元気がなかったのは、単に怖い思いをしたからじゃない。
 うちに帰りたかったからなんだ、とそうルナは思い、そして納得したのだった。
 お父さんとお母さんのいる、安心できる場所。そこにシャアラは帰りたかったから、そしてすぐには帰れそうにない状況が不安だったから、だからこそあんなにシャアラは元気を無くしていたんだ、と。
 だけどきっと大丈夫。生きていれば、生き延びさえすれば、きっとシャアラはおうちに帰れる。みんなで頑張っていればきっと。

 ――そしてもう一つ、ルナには納得したことがあった。
 ああ、だからか。と思ったのだ。
 あの時、激しく揺れるシャトルの中で、ハワードの悲鳴が一番深く、自分の胸を貫いたのはだからだったんだ、と。
 帰りたい場所。助けて欲しいと呼べる名前。
 もうそれは、自分にとって遠いものとなってしまっているからなんだ、と。
 それを今も持っている二人を妬ましく思ったわけじゃない。
 ただ、自分と二人との間にみつけた距離の大きさに、ほんの一瞬心が固まってしまっただけ。

 けれどルナはそれには気づかなかったふりをした。あんなにもハワードの悲鳴が鮮やかに耳に残ったのは何故なのか、その理由は今もわからないのだとそういうことにした。いや、あの悲鳴が残した鮮やかな痕ですら忘れてしまうことにした。
 そうしてルナは本当に忘れてしまった。
 そんなふうに自分自身を騙しきってしまえるほどに、それはもうルナにとって、すっかり慣れてしまった作業だったのだ。
 まだ、それに気づいてしまうわけにはいかないから。
 気づいてしまったら、自分がどうなるのかルナにはわかっていたから。
 それともどうなってしまうのかわからないから、だろうか。
 ルナは自分の心にふたをした。 

 シャアラの肩を抱きながら、ルナはただ、頑張ろう、と、そう思った。

終わり

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