第一話  転校生ルナです!

「ちくしょう!」
 乱暴な声と共に壁にぶつかったクッションは大きく跳ねて床に転がった。それが動きを止める前にハワードは次に手をかけた。
 一つ、二つ、三つ。ハワードの体が沈むほど柔らかいソファの上に並べられていたクッションは、次々と壁を経由し床の上へとその位置を変えていく。
 今日はろくでもない一日だった。
 その原因はなんといってもあの生意気な転校生だ。
 子分であるベルを指導するのは主人であるハワードの役目であり義務であり正当な権利でもあるというのに、横からしゃしゃりでてきて余計な口を出してきた。それだけなら物知らずゆえの行動と寛大に許してやってもよかったのに、あろうことかハワードの父がどれほど力を持っているのかを教えてやっても、その転校生は態度を改めなかったのだ。
 次を求めたハワードの手が空中を泳いだ。視線を横に流して舌打ちをする。ソファの上はすでに空になっていた。他に投げられるようなものは手の届く範囲にはない。
「っくそ!」
 それでも一向にいらだちはおさまらず、ハワードは拳をソファにたたき付けた。
 このソファ一つをとっても、あの転校生の一年分の生活費くらいにはなる。ハワードと他の生徒との間にはそれだけの差があるのだ。それなのにあの転校生の態度はなんだ。まったく許し難いとしか言いようがない。
 身の程知らずには制裁が必要だ。だから体育の授業であの転校生が試合の相手となったとき、これはいい機会だとハワードは思った。
 しかし事態はハワードの意図したとおりには進まなかった。転校生とそいつに味方するシャアラが反省もせずに歯向かってきたばかりか、前々から目障りだと思っていたカオルに邪魔をされたのだ。
「カオルのやつ!」
 ハワードは立ち上がると地団駄を踏んだ。
 決してハワードのグループに加わろうとしないカオルの存在は確かに不愉快なものではあった。しかし表だって逆らってくるようなこともなかったから見逃してやっていたのだ、これまでは。けれど、こうしてはっきりと反抗の意志を表した以上、捨て置くわけにはいかない。
 転校生にも我慢がならなかったが、まずはハワードを蹴り飛ばすなどというとんでもない行動を悔い改めさせるべく、放課後カオルを呼び出した。
 ところがそこへ飛び込んできてハワード達を妨害したのが、またもあの転校生だったのだ。
 なんてしゃくに障る奴らなのか。
 二人してハワードを馬鹿にするような言動をとった挙げ句、その挙げ句に。
「僕は悪くないからな」
 つぶやいたハワードの声は、かんしゃくに任せて吐き散らしていたこれまでの悪態と比べると、ずいぶんと勢いのないものだった。
「僕のせいじゃないさ」
 拳を握って部屋の真ん中に立つハワードの顔は下を向いていた。その頭に浮かぶのはあの場所で見た赤い炎。それが走ったその向こうには、見知った顔があった。
 あの火は化学薬品に引火したものなのだからそう簡単に消えはしない。駆けだしたハワードの背中には何度か爆発音も聞こえていた。それは随分と大きなものだったように思うが、いったいあれからどうなったのだろう。
「僕の知った事じゃない」
 つぶやいて歯をくいしばり、ハワードは顔を左右に振った。
 あの炎と一緒に何人か置いてきた形になったわけだが、そもそもあいつらはハワードのグループではないし、しかもハワードに逆らったやつらだし、それに、それにあんなことになったのはハワードのせいではない。
 そうだ。そもそもあの転校生がハワードに無礼な態度をとったから悪いのだ。カオルがあんな卑怯なことをした上にハワードをこけにするような言動をとったから悪いのだ。
 あいつらがあんなことをしなければ、こんなことにはならなかったのだから。
「どうなったって知るもんか」
 再度そんな言葉を吐き捨てたハワードの耳を、ふと機械的なメロディがかすめた。
 部屋の入り口付近に設置されたモニターの呼び出し音だ。
 それが内線用に設定されたメロディであることを確認して、ハワードは乱暴に応答した。
「なんだ。何か用か?」
 モニターに写った姿は、ハワードが十中八九と予想したとおり屋敷の執事のものだったが、彼が告げた言葉は期待すらしていなかったもので、ハワードはそれを聞くや否や部屋を飛び出した。
「旦那様と奥様がお戻りになりました」
 執事はモニターの向こうからハワードに一礼するとそう言ったのだ。
 今夜も両親は不在だった。なんとかという会社のなんとかパーティに出席するためだったか、どこかの音楽家のコンサートに行くのだったか、用事は聞いたような気もするが、ハワードは覚えていない。何にしても、とにかく今夜も両親はハワードと一緒に食事をしなかったし、ハワードが起きている時間には帰ってこない。そう思っていたのだが。
 長い廊下を走るハワードの足は軽い。ついでに胸の中も軽い。さっきまでの何かつかえたような重いものはすっかりどこかに消えていた。
 パパに全部聞いてもらおう。
 どんなに転校生がむかつく奴なのか。どれほどカオルの態度がしゃくに障るのか。そんな二人に対してハワードが改悛を促すのは正当な行いであるとわかってもらうのだ。
 ハワードにはなんの落ち度も責任もないのだと、パパならわかってくれるはずだし、他の奴らにもわからせてくれるはずだ。
「パパ!」
 二人がいると執事に告げられた部屋の扉を左右に大きく開いて中に飛び込むと、やわらかい腕がハワードを包み込んだ。
「ハワード、ハワード、ケガはないの?」
「ママ?」
 ハワードを抱きしめて頬をすりよせてくる母親にハワードは面食らった。二人は用事が済んで帰ってきただけなのではなかったのだろうか。
「あなた、火事の現場に居合わせたのですって?」
「ママ、それは!?」
 母は両手でハワードの顔を挟み込むと目をのぞき込んできた。そして何度もケガは無いかと尋ねてくるのだが、ハワードはそれに答えるどころではなかった。
 二人がもうあの事故のことを知っているなんて。
 レスキューから事故の連絡が行ったのだろうか。しかしそれだけならハワードがあの現場にいたことが分かるわけがない。あの場所にハワードがいたことを知っているのは、ハワードの子分達とあいつらだけだ。きっとあいつらが告げ口したのだ。
 ……それならあいつらは無事だったということになる。
 ほっと息をつきかけて、ハワードは口を引き結んだ。
 それどころではない。ハワードの口から正しい情報を伝えるはずだったのに、あいつらの口からあることないことパパ達に伝わっているとしたら大ごとだ。
「パパ、ママ、それは……」
 間違った情報を正すべく口を開きかけたハワードだったが、父親が頭に手を載せてきたのでひとまず口をつぐんだ。
「ケガはないんだな?」
 黙ったままうなずく。
「それなら、いい。けが人もなかったようだし、大ごとにしないように言っておいた。あまり危ないことをするんじゃないぞ?」
 父親はハワードの髪をくしゃくしゃとかき回すと目を細めてそう言った。母親はもう一度ハワードをぎゅっと強く抱きしめてきた。
「心配したのよ。無事でよかったわ」
 そしてハワードの頬にキスをすると、ハワードを放して乱れた服と髪を直す。その様子を見てハワードは弾かれたように顔をあげた。
「パパ? ママ?」
 てっきり帰ってきたのだと思ったのに、これからゆっくり話を聞いてもらえるのかと思ったのに、二人は上着を脱いでもいなかった。襟元を正し、二人でお互いの様子を確認し合って、そうして両親はそれぞれハワードの頭をもう一度なでた。
「パーティーを抜けてきたんだ。もう戻らなければ」
「もう遅いから、そろそろ寝た方がいいわ。おやすみなさい、ハワード」
 そうして二人はまた出かけてしまった。優しい笑顔だけを残して。
 二人の出て行った扉を眺めてハワードはしばらく立ちつくしていたが、やがてきびすを返すと部屋へ戻った。
 やっぱりパパは頼りになる。何も言わなくても、全て問題ないようにしてくれた。あいつらも無事だったようだ。心配などしていたわけではないが、一応クラスメートだ。同じクラスから死人でもでたら縁起でもないから、それだけだ。まあ、ああいう奴らは生意気なだけに悪運も強いんだろう。
 広い屋敷の長い廊下を今度は歩いて戻る。何の心配事も不安もなくなったはずのその口元は真一文字に結ばれていた。
 部屋に入ると足に何かぶつかった。下を見るとハワードが投げ散らかしたクッションの一つだった。
 ハワードはそれを拾い上げると、向かいの壁に力一杯たたき付けた。

終わり

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