第四十話 とうとう着いた

 夜の海も静かだったが、大陸の夜も静かだ。オリオン号のエンジン音が低く聞こえるだけで、他に操縦席に響く音はない。
 アダムの治療のために当初の予定を変更し、一番近いテラフォーミングマシンに進路を取ることになった。上陸した時から緑の少ない風景だったが、川を離れてからその数はますます減って、今目の前にあるのは砂ばかり。これで風でもあればその砂が船体をたたく音がするのかもしれないが、今夜は風もなかった。
 隣に目をやれば、カオルがやはり静かに操縦桿を握っている。窓の外に広がる夜空のように深い色の瞳には何の感情も浮かんでいないように見える。元々カオルの感情や思考を読むことは難しい。昔に比べれば、相当仲良くなれたのではないかと思っている今でもそれは変わらない。けれど、それはカオルに感情がないということでは、けしてない。静かな外見の内に、驚くほど豊かで細やかな感情と思考が秘められていることは、それこそ仲良くなれた今ならわかる。
 だからその静かな横顔に向かってベルは口を開いた。昼間からずっと、彼に言いたいことがあったのだ。
「カオル、昼間のことなんだけど……」
 そう切り出した自分の言葉に、カオルの表情がゆらいだように見えた。けれどカオルは何も言わなかった。視線すらベルに向けない。
 何の反応もなかったことは、しかし、反ってベルの気を楽にした。カオルがベルに応えないということは、これまでほとんどなかった。だから、今こうして自分の存在を無視するかのような態度をとられたことは、むしろカオルがこちらを気にしている証のように思えたのだ。
 前だけを見ているカオルの横顔に、ベルは続けて語りかけた。カオルが自分の話を聞いてくれていることを、ベルは疑わなかった。
「ハワードにはプロポーズなんて言われたけど、俺はそんなつもりなかったんだ」
 カオルの表情はやはり変わらなかったが、操縦桿を握る手に少し力がこもったような気がした。それはベルの気のせいだろうか。
 そんなふうにカオルの様子をうかがっているような自分の状況に、ベルの方も少々居心地の悪さを感じたので、カオルに向けていた視線をはずし、正面をむいて座りなおした。深く背もたれに体を預けて言葉を継ぐ。
「もちろん、俺の言ったことにプロポーズみたいな意味があることはわかっていたんだ。けど、でも俺が本当に言いたかったのはそういうことじゃなくて」
 そこでいったん言葉を切ったことに、深い意味があったわけではない。言葉を捜しながら話していたのですぐに続きが出てこなかっただけだ。ただ、その短い沈黙の間にカオルが一瞬視線を流した。正面を向いていたベルには、確かにそうだとは言いきれないほどの一瞬のことだったが。
「ルナ、元気がなかっただろう? だからなんとか励ましたくて。元気に、なってもらいたくて。本当にただそれだけだったんだ」
 風はまだ吹かなかった。ベルが語り終えた操縦室には低いエンジン音だけが響く。そうしてそのままどれほど船が進んだのか、やがてカオルが口を開いた。やはり前を向いた姿勢のままで。
「どうしてオレにそんなことを言うんだ?」
 ひとり言のような低いつぶやきは、ともすればかすかなエンジン音にまぎれてしまいそうなものだった。けれどベルはそれを拾い上げ、穏やかに笑った。
「どうしてかな。なんとなく、カオルには聞いてほしかったんだ」
 それに対する応えはなかった。ベルもそれ以上は何も言わなかった。 
 窓の外に広がる夜空は、東の方に薄い明かりが差し始めていた。もうすぐ夜が明け、交代の時間となる。
 風が吹いた。巻き上げられた砂が一瞬二人の視界を遮った。

終わり

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