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 現代でペットといえば、ほぼ間違いなくロボットペットのことなのだが、本物の生き物を愛好する人も、もちろん存在する。嗜好というより、金銭あるいは規制上の問題が存在するため、ごく少数に限られてはいるが。
 けれどメノリは本物の猫を見たことがあった。猫を飼っている人の家を訪問したときに見せてもらったのだ。どのような人の家で、なぜそこへ行ったのかは覚えていない。連邦議員を務める父の交友関係は広すぎて、まだ幼かったあの頃のメノリに把握できるものではなかった。
 あのときはまだ母が一緒だった。

「私ね、猫を飼っているの。見たい?」

 メノリと母を迎えてくれたのは上品な老婦人だった。その人がまるで重大な秘密を打ち明けるような調子でそう言うので、メノリは少し戸惑った。猫は見たいとメノリも思ったのだが、どうしてそんなにこっそりと言ったりするのか、それが不思議だった。
 まさか本物の猫だとは思わなかったのだ。
 もったいぶる老婦人の態度に困惑して、メノリが何も言えずにいると、見かねた母が口を添えてくれた。
「本物の猫なのよ。メノリは見たことがないでしょう?」
 本物の猫!
 ようやく事態の貴重さを理解したメノリが驚いて目を見開いたので、老婦人は嬉しそうに笑った。
 猫がいるという部屋に案内されながら、メノリの胸は期待でいっぱいだった。ロボットではない猫というものを、メノリは物語の中でしか知らなかった。物語に出てくる猫たちは、皆気まぐれでわがままで回りの人を困らせたりするのだが、同時に誇り高く自由な生き物だった。文字でしか知らない存在ではあったが、メノリはその奔放な美しさに憧れていたのだった。
 この人が飼っているという猫も、きっと手に負えないいたずら者なのだろう。そしてとても美しいに違いないと、メノリの期待は高まるばかりだった。

 けれど、結論から言えばその期待は裏切られた。

 本物の猫は確かに美しかった。ロボットペットはどれほど精巧に作られていたとしても、やはりロボットでしかないのだと、幼いメノリにも理解できるほどその違いは歴然としていた。その猫がとても大切にされていたということもあるのだろう。瞳の光も、毛並みの艶やかさも、触れたら壊れてしまいそうなほど、繊細な輝きに満ちていた。許されて、恐る恐るそっと触れた体はもちろん壊れたりはしなかったが、あまりにも温かくて柔らかかったので、メノリの指と胸は震えた。
 ただ、その猫はあまりに静かすぎた。用意された部屋の用意された場所で温和しく丸くなり、飼い主が抱き上げてもメノリが触っても、されるがままになっていた。それが回りのことに頓着しないふてぶてしさとでも表現できるようなものであったならば、物語に出てくる猫たちと同じ強さがあるのだと信じることもできたのだが、どう頑張って考えてもそういうふうには見えなかった。
 それに、何よりメノリが驚いたのは、猫のための部屋の窓が大きく開いていたことだった。猫どころかメノリにだって越えていけるほどの高さと広さのある大きな窓だった。それが緑広がる庭に向けて大きく放たれ、そこから流れ込む穏やかな風が薄いカーテンを揺らしていた。
 こんな恰好の出入口があるというのに、どうしてこの猫は部屋の中で温和しくしているのだろう。
「猫はここからお散歩に行くの?」
 ひょっとしたら今はその時間ではないから温和しいだけで、気が向けばどこにでも行くのかもしれない。ここはそのために開けているのかもしれない。
 そう思ったメノリは、窓を指さしそう聞いてみたのだが、老婦人の答えは微笑を伴った否定であった。
「いいえ。この子はずっとここにいるわ」
 一人で外に出たりはしないのだと、他ならぬ飼い主がきっぱりとそれを否定したのだが、メノリは納得できなかった。
 この屋敷はヴィスコンティ家よりやや手狭ではあったが、庭はよく整備されていた。窓からはちょうど盛りを迎えた花がよく見えた。枝と葉を整えられた背の低い木もたくさん植えられている。見通しのよい眺めのあちらこちらをそれが遮り、どこかに秘密を隠しているような謎めいた風景を造り出していた。
 こんなに面白そうな世界がすぐそこにあるというのに、猫が、あの好奇心旺盛で気ままな生き物がどこにも行かないなんて、そんなことがあるのだろうか。
「この子はねえ、この部屋から出たことがないの。だからここから出ていったりはしないのよ」
 思い描いていた猫と現実の猫との落差に、メノリは大いに驚き、また落胆していたのだが、老婦人はなんでもないことのようにそう言って抱いている猫をなでた。
 窓はいつも開け放しているわけではないということや、いつも部屋には誰かがいて猫を一人にすることはないのだということが続けて説明されたので、猫が別に逃げ出しやすい環境にいるわけではないのだということは一応わかった。だがそれでもメノリには納得しがたいことだった。

 すぐ側に広がる世界のすばらしさに、気づくことも惹かれることもなくいられるなんて。

 けれど、結局、自分もあの猫と同じだったのだと、近頃ようやく体に馴染んできた革張りの椅子に背中を預けながらメノリは思った。
 議員秘書を務めていた頃からこの部屋への出入りはあったが、部屋の一番奥に位置するこの椅子に座り始めたのはごく最近のことだ。秘書の時から比べると、机も一回り以上大きなものに変わっている。その隅に置かれた書類箱についさっきまで読んでいた報告書を収めて、メノリは一つ息をついた。
 報告書はいい内容ではなかった。
『お探しのものはまだ見つかりません』
 長々と経過の説明や数値が並んではいるが、要約すればそういうことだ。
 この前の報告書も、そのまた前の報告書も、ほぼ同じ内容が並んでいた。
 この部屋の窓も大きいので、書類箱の隅々にまで差し込んできた日差しが届いている。磨き上げられた机に反射した光が目に入り、メノリは目の前に手をかざした。
 しかし光を受け止めた手が全く熱を感じなかったので、メノリはわずかに眉を寄せた。
 コロニーの太陽は、明るいだけで熱を生まない。昼と夜とを分けるために映像の空をただ移動するだけの明かり。コロニーの温湿度はコンピュータによって管理され、太陽がどこにあってもそれで暑かったり寒くなったりすることはない。
 知識と経験が裏打ちするその事実に、いまさら感じる違和感があった。ほんの少しがっかりしてしまったのだ。

 あの島で浴びた日差しが、ここにはないことが、寂しかった。

 暑かったな、とメノリは少しばかり遠くなってしまった記憶をたぐった。
 初めて本物の太陽を見たとき、その美しさや輝かしさにも驚いたが何より暑かった。壊れたシャトルの中で満潮を待つ間、体中からしたたり落ちた汗の不快さは過去が遠くなっても鮮明に残っている。
 あの島での生活は大変だった。暑かったし、寒かったし、いつも空腹だった。常に危険と隣り合わせで安らげる時はほとんどなかった。
 それなのに、あの強烈な太陽が今こんなにも懐かしい。
 海や土や森の、むせかえるほど濃い匂いが、慕わしい。
 完璧に整えられた快適さの中で、メノリの心は不自由な生活を強いられた環境へ伸びる。明るいだけの日差しではもの足りなかった。

 結局自分も、あの猫と同じだった。
 世界といえばコロニーの整えられた環境しか知らず、本物の自然が宇宙のどこかには存在しているのだと聞かされても、それを求めようとは思わなかった。かつて存在した自然を取り戻す作業にも興味はなかった。

「この部屋から出たことがない。だからどこへも行かない、か」

 まったくだな、とメノリは苦笑をこぼした。世間知らずはお互い様で、あの猫のふがいなさに失望したり憤ったりする資格など、自分にはなかったのだ。
 けれど今は。
 もう世界の広さを知ってしまったから。
 その厳しさも美しさも知ってしまったから。

『お探しのものはまだ見つかりません』

 その世界へ続く道を探し始めてから、幾度もくり返される同じ言葉。
 だが、メノリは落胆してはいなかった。難しいことは最初からわかっている。そして、どれほど困難で時間がかかることであろうともあきらめるつもりはないのだから、落胆などするはずがなく、している場合でもなかった。あの太陽と空と海を再びこの体で感じるまで、あきらめたりはしない。

「地球も、もう随分美しくなった。ルナが頑張ったからな。いつか、お前にも見てほしいと思っている」

 議員秘書になる前から、いつも自分の机の側に飾っている写真立て。
 そのフレームの中の変わらぬ笑顔に、メノリは穏やかに微笑みかけた。

 猫っぽい人とかっていうんじゃなくて、
猫から連想した小話になりました……。

まあ、お題からはずれるのはいつものことだ、うん。まあいいか。

 

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