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 苦労の末に冬は終わり、太陽を取り戻すことはできたが、大量に降り積もった雪が一瞬で消えるというわけにはいかない。溶けかけた雪というのは随分と厄介なものだった。照り返しはきついし、所かまわずできた水たまりで足場は悪いし、真冬の凍った道のほうがかえって歩きやすいくらいで、冬が終わっても食料集めはまだまだ厳しい仕事だった。
 それでも雲さえなくなれば、この島の日差しはやはり強烈だった。雪は見る間に少なくなり、何より動植物が一気に活動的になった。冬枯れの木立は緑を取り戻し、冬の間はどこに隠れていたのかと思うほどに、森は生き物であふれた。


「シャアラとカオルは果物探しをお願い」

 そんな仕事がシャアラに回ってきたのは、雪が木立や山の陰にわずかに残るばかりで、もうほとんど見えなくなってきた頃だった。これならもう遠出もできるだろうし、果実が生り、熟していることも期待できるのではないかということになったのだ。
 狩りや釣りに向かない自分の仕事が果物探しになるのは、予想というよりはむしろ希望していたことだったし、遠出をするのなら誰かと組むことになるのもわかっていた。
 けれど、一緒に行くことになった相手の名にシャアラは一瞬ひるみ、身構えた。そして次の瞬間にはそんなふうにしてしまった自分を恥じた。
 学園にいたころカオルとは全く接点がなかったが、シャアラにはカオルに対する苦手意識などはなかった。変わった人だとは思っていたけれど、怖いとは思わなかった。この惑星に来てからは助けられたことも多く、優しい人なのだとベルもルナも言っているし、シャアラも今は知っている。だから、カオルを怖がったりする必要はなく、そんなふうに思うのはきっと失礼なことなのだ。
 それでも、二人だけというのは緊張する。
 そう、怖いとは全く思わないけれど、緊張、するのだ。無口な彼と二人になって、どうしたらいいのかわからない。
 以前は平気だったのに、今そんなふうに思ってしまう原因はわかっている。
 勝手に東の森へ出かけたシンゴとハワードをルナ達が探しに行き、シャアラとカオルが二人で留守番を任されたとき、カオルに言わせてしまった言葉。

「オレが殺した」

 あのときのカオルの表情と声音がシャアラの胸に刺さったままになっている。まるで薄く鋭い氷の刃をつきつけられたかのような。
 けれど、シャアラが感じたのは恐れではなかった。ただひたすらに心が冷えて寂しく悲しかった。
 それは多分、シャアラ自身のものではなく、あの時のカオルの心がシャアラにまで流れ込んでしまったからなのだと思う。それくらい、カオルの口調は淡々としていた。告げた内容にそぐわない冷静なそれが、かえって居たたまれなかった。
 カオルの方はもう気にしていないのかもしれない。
 冬のさなかひどい吹雪の明けた朝、ルナと二人で帰って来た時から、カオルの雰囲気は変わった。きっとルナが何かを言ったのだろう。ルナにはあのセリフのことも全部話していたから、きっとルナが何かを言ってくれたのだろう。
 だからもう、カオルは何も気にしていないのかもしれない。
 けれどシャアラの方はそうもいかなかった。
 他の誰かと一緒ならそれほど意識せずにいられるし、カオルのことを話題にするのも平気だったが、二人だけというのは気まずい。カオルが怒っていないのだとしても、カオルに辛いことを言わせてしまったのはシャアラで、そのことをまだ謝れずにいるのが後ろめたくて居心地が悪いのだ。
 それならばさっさと謝ってしまえばいいのだが、謝ろうとすればあの時のことを蒸し返すことになり、カオルはそれを嫌がるのではないかと思うと、シャアラにはそれもためらわれるのだった。


 雪のなくなった森は、まだ所々ぬかるんでいたものの、それほど歩きにくいということはなかった。それに前を行くカオルが草をかきわけ、枝を払ってくれるので、シャアラの足取りは順調だった。
 でも、カオル一人ならもっと軽快に駆けていけるのだと思うと、シャアラの胸は感謝よりも申し訳なさで一杯になる。カオルの背中を追いかけるシャアラの目線は沈みがちだった。
 引け目というものは、いったん感じ始めるときりがない。悪いことをしてしまったのにまだ謝れていないに始まって、自分のことを足手まといだとカオルが不快に感じているのではないかと続き、さらには忘れかけていた記憶まで蘇る。
「スーパーで買った肉を食べるのは平気なんだろ」
 もうずいぶんと前のことになるのに、思い出してしまえばその記憶は鮮明だった。あの時シャアラはカオルの顔を見なかった。けれど届いた声だけでもカオルが自分を軽蔑しているのだと感じるには充分だった。
 あの頃から比べれば自分も結構成長したのではないかと、シャアラにだってそれくらいの自負はある。それでも、カオルに充分だと思ってもらえる自信はない。
 黒い背中は振り返りもせず黙々と先を行く。その背中にいったいどう思われているのか、考えるのも尋ねるのも辛くて、シャアラもただ黙々とついて行くしかない。
 息苦しくなって、シャアラは大きく息をはき出した。そうしてふと横へ流した視線が鮮やかな色彩をとらえた。
 足をとめて目を凝らすと、木立の向こうに明るい光が射していた。その一角だけ木の間隔が空いている。その分上方の空間も広がり日光が届きやすくなっているようだった。
 そうして日が届く分、その辺りの植物はよく育っていた。今まで歩いて来たところは雪が消えただけの黒い土が目立っていたのだが、そこは緑の草が茂り土を覆っていた。そして何よりシャアラを喜ばせたのは、競うように咲き誇る色とりどりの花々だった。
「わぁ」
 シャアラは思わず声をあげて顔をほころばせた。
 冬の間、白と黒だけの単調な景色に飽き飽きしていた分、思いがけず目にすることができた華やかな光景に、シャアラは夢中になった。
 手前の枝をかき分け花畑に足を進める。花を踏まないようにそっと足を下ろすと、ふわりと柔らかい感触がした。見た目よりもっと草も葉もよく茂っているのだ。はずむように返ってくる感覚が楽しくて、シャアラはそのまま花畑の奥に入っていった。
 差し込んでくる陽光は、冬が終わった今ではやはり強烈で、肌にちりちりと痛いほどだった。けれどその分辺りの花の色が明るく目に飛び込んでくる。赤や黄色にオレンジ色、派手なほどの原色が迫ってくるような感じが、むしろ心を浮き立たせてくれる。光と花の妖精が自分の回りを飛び交って、歌っているのが見えるようだ。
 シャアラは妖精達に笑顔を返しながら花の中にひざをついた。そうして一際大きく花開いた一輪に手を伸ばした。
「ごめんなさい。一つ分けてね」
 花と妖精とに断りを入れて茎をつまんだ指先に力を入れる。細い茎はすんなりと折れてその花はシャアラの手に載った。思ったよりずっと簡単に摘むことができたことが、妖精に許してもらえた証のようで、シャアラはほっと息をつき、その花を自分の髪に挿した。
 選んだのは、日の光を集めたような黄色い花だった。その明るさと鮮やかさが自分を励ましてくれるように思えて、つい手が伸びてしまったのだ。
 鏡がないのが残念だとシャアラがそう考えていると、背後でかすかに音がした。誰かが草を踏んだ音だと気づいたのと、シャアラが振り向いたのとは同時だった。
「カオル……」
 誰かも何も、自分以外でここにいるのはカオルに決まっている。
 回りの色彩から浮いているようにも沈んでいるようにも見える、すらりとした彼の立ち姿を認めると、シャアラの顔に一気に血が上った。そして上ってきた血に逆らうようにシャアラは顔を伏せた。
 恥ずかしい。
 とてもカオルの顔が見られない。
 カオルの存在を忘れて一人ではしゃいでいるところを見られてしまった気恥ずかしさもある。けれど、何より自分が仕事を忘れていたことが恥ずかしかった。今日は果物を探しに来たのであって、遊びに来たのではない。まだ一つも果物を見つけていないのに、花なんかに気を奪われるなんて無責任もいいところだ。ただでさえカオルの歩みを遅らせているのに、カオルに声もかけずに無駄な時間を使ったりして、また軽蔑されてしまったに違いない。
「……ごめんなさい……」
 うつむいたまま消え入りそうな声でシャアラは謝罪の言葉を口にした。カオルがどんな顔で自分を見ているのか、怖くてとても顔があげられない。
 さくりと、さっき聞いたのと同じ、草を踏む音がした。カオルが近づいてきたらしい。うつむいたままのシャアラの視界にカオルの黒い靴先が映った。
「何を謝る」
「だって……」
 シャアラの語尾がさらに小さくなった。カオルの口から出たのはシャアラを責める内容ではなかったが、口調も声音も平坦すぎてカオルが何を考えているのかシャアラにはわからなかった。
 シャアラが何も言えずに黙っていると、カオルもまた沈黙を続けた。
 自分の言葉を待っているのだろうか。
 それならちゃんと謝らなければいけない。シャアラは意を決して口を開いた。
「果物を探さなければいけないのに、勝手に花を摘んだりして……。ごめんなさい。ちゃんと仕事をするわ」
「まだ時間はある」
「え?」
 顔は伏せたままで、シャアラはカオルから返ってきた言葉に目を見開いた。口調は相変わらず平坦なままだったが、カオルは怒っていないのかもしれないと、そう思わせるだけの何かが短い言葉の中にあったのだ。
 驚いたシャアラが返事もできずにいると、さらに思いがけないことにカオルの方が先に言葉を継いだ。
「人間が生きていくのに必要なものは食料だけじゃない。花を美しいと感じることができるのは、いいことなんだろう」
 と。
 淡々と、けれど冷たいとは思えない、そんな調子でカオルが言った。そこには軽蔑や怒りはかけらもなかった。顔を見なくても、シャアラにもそれがわかった。
 以前のカオルなら、絶対にこんなふうには言ってくれなかったと思う。けれど、今現実に言われてみると、カオルには似合わない言葉だとも思わなかった。
「カオル……」
 肩の力が抜けてシャアラは顔を上げた。カオルと目が合う。と、シャアラの髪から花が落ちた。
「あ」
 花が地面に落ちる前に、カオルの手がそれを受け止めた。花が落ちたことに気づいたシャアラが短い声を上げたのと、それはほとんど同時だった。
 ああ、やっぱりカオルは私よりもずっと早く動けるんだ。
 すごいなとただ素直にシャアラは感嘆した。今までのような気後れはもうなかった。
 そしてカオルは受け止めた手の動きを止めることなくそのまま持ち上げて、シャアラの髪に花を戻した。さりげなく、花は元の位置に収まった。
 ひょっとしたら少しくらい照れたりするような、そんな場面だったのかもしれない。けれど、一連の動作はあまりにもよどみなく行われ、シャアラにはそんな余計な感情が生まれる空きがなかった。
「ありがとう」
 だから自然にこぼれた感謝と笑顔に、カオルもただうなずいた。眉一筋動かすことのない、素っ気ないといえばなさすぎるほどの反応だったが、シャアラにはもう気にならなかった。
 カオルも、本当にもう何も気にしていないのだ。
 あの時のことも、謝ったりすれば、きっとまた何のことだとそう言うのだろう。それならば、もう蒸し返すような真似はしないほうがいいのだろう。謝れなかったことはやっぱり少し気が重いけれど、その分はこれから別の形で返していこう。
 カオルもそんなふうに、何かの決着をつけたのだ。たぶんあの吹雪の夜に。
 詳しいことはわからないし、これからもきっとわからないままになるのだろう。でもそれでよかった。
「行こう」
「うん」
 促されてシャアラは立ち上がった。そうして森の奥を指さす。
「前にあっちで果物を見つけたことがあるの。今ならまた見つかるかもしれない」
 うなずいたカオルは先に歩き出した。無言で枝を払って歩くその背中を、シャアラも追って歩き出す。髪に挿した花が落ちないようにと気をつけながら。

優しい人はそんなわけでカオルなんですが。
あんまり「優しい」というキーワードに関係ないような……

全話制覇の方で一回カオルとシャアラの仲直り話を書いたのですが、
これはその別パターンです。

でも結局同じ様な話になりました。
まあでもいいんです。一緒にお花摘みをさせたかっただけだから(してないって)

 

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