You are my home.

 世間の人はどうしてこの慌ただしさに鈍感でいられるのだろうか。
 婚約の後の日々は怒濤のように過ぎた。結納、式と新生活の準備、結婚式に披露宴そして新婚旅行と立て続けのイベントに、ヒカルはもう疲れた以外の言葉が出てこなかった。
 両手に提げた大量の土産物と荷物を下ろすのもそこそこに真新しいソファに倒れ込んで、ヒカルは深く息を吐き出した。
 このソファはあかりの主張に従って買ったものだ。ヒカルは別にいらないと言ったのだがあかりは譲らなかった。
 だって、ソファがなかったらヒカルは床で寝るでしょう?
 というのがその理由だった。
 誰が好んで固いフローリングの床に寝たりするもんかと、その時ヒカルは反発したものだったが、こうなってみるとあかりの主張が正しかったことを認めざるを得ない。確かに、今ここにソファがなかったら、ためらうことなく床に転がっていた。
「ヒカル、お腹空いてるでしょ? ご飯がいいよね。レンジのご飯だけどお茶漬けにでもする?」
 荷物を置いたあかりがキッチンに向かう気配に「ああ」とも「うう」ともつかない返事をして、ヒカルはソファに顔を埋めたまま動かなかった。
 まったく、どうしてこんなにもすさまじいスケジュールを強要する習慣がすたれないのか。結婚したことは後悔していないしする予定もないが、結婚の付属物には少しばかり辟易していた。せっかくの旅行も、あまりの目まぐるしさに楽しみ尽くしたとはいいがたい。もちろん楽しかったのだけれども、蓄積された疲労が疲労だった。
 真新しいソファからは新品独特の匂いがする。
 ふと息苦しさを感じてヒカルは顔を上げた。
 新品なのはソファだけではない。二人とも一人暮らしの経験はなかったので、新生活に際してほとんどのものは新調している。なじみのものといえばそれこそ衣類と碁盤くらいだろうか。
 見慣れないものばかりの部屋は、自分の家だというのに、よそよそしい空気に満ちていた。もちろんこの部屋で過ごすのはこれが初めてではないのだが、新婚旅行の間に記憶は薄れ、なんだか他人の家にいるようだ。
 なんとなくやるせない気分になり寝返りをうつと、ソファのそばに置かれたガラスのテーブルが視界に入った。固そうだななどと当たり前のことを思い浮かべながら、ぼんやりとそれを眺めていると、軽い音を立てて湯気をたてた茶碗がそこに置かれた。
 視線を上げると、お盆に茶碗をもう一つのせたあかりがテーブルを挟んでヒカルの向かいに立っていた。
「ほんとはここ、ご飯を食べるためのテーブルじゃないんだよ?」
 自分の茶碗をテーブルに移しながらあかりは少しだけ顔をしかめた。そしてソファでなく床に座ると、でも今日は特別ねとしかめ面を解いて笑った。
 ヒカルは体を起こしてソファの上に座り直した。くしゃくしゃになった髪を直しもせずに茶碗から立ち上る湯気を追っていると、あかりが首を傾げた。
「どうしたの? 冷めちゃうよ?」
「あ、ああ」
 のそりとソファから降りて床の上であぐらをかく。ソファとテーブルはあかりも言ったように食事用ではないので、ソファの上からでは茶碗に手が届かない。
「さあ、食べよう。いただきます」
 テーブルの幅の分だけ向こうにいるあかりが手をあわせた。ヒカルも続いて手をあわせ、口の中で小さくいただきますを言い、茶碗に手を伸ばした。
 温かい。
 じんわりと手のひらがぬくまっていく感覚が食欲を刺激したのか、腹の虫がくうと情けない音を立てた。それに急かされるようにお茶漬けをかっこむと、口の中と腹の中も温まる。まだふやけていなかったあられがかりりと香ばしい。
 ふうと一息ついて向かいを見れば、あかりもほぐれた顔をしていた。足を崩してぺたりと座ったあかりは、いつの間にか着替えていた。襟ぐりが大きく開いた、あかりにはやや大きめサイズのその服は、ほとんど寝巻きだとヒカルも今では知っている。
「なんか、ほっとするね」
 ふにゃりとゆるんだ口元であかりがそんなことを言う。
「そうだな」
 なんだ、疲れてたのはオレだけじゃないのかと、ヒカルは思わず苦笑しながらうなずいた。
 無防備なあかり越しに見える部屋は、やっぱり新品のなじまぬ品で埋もれているのに、新しい匂いはもう気にならなくなっていた。
 あかりがお茶漬けを口に運ぶ。自分の作ったお茶漬けがそんなにもおいしいのかと呆れてしまうほど、幸せそうに目元が下がっている。ゆったりとくつろいだその様子に、ヒカルの肩の力も自然と抜けていく。
 考えてみれば、うちでご飯を食べるのは久しぶりなのだ。結婚式の前日もホテル泊まりでそのまま旅行に行ったのだから……何日ぶりだろう。インスタントのお茶漬けの素とレンジでチンのご飯でも、そりゃあうまいはずだ。
 ああこれかと、勢いよくお茶漬けを流し込みながら唐突にヒカルは思った。
 どんなに大変でも結婚に伴う諸々の習慣がすたれないのは、きっとみんなこの感覚を味わいたいからなのだ。帰ってきたーというこの安堵とくつろぎを。ひょっとしたら、あんなに忙しいスケジュールを組むのも、わざとなのかもしれない。より強くこの感慨を味わうための。
 なんてな、まあ、それはないか。
 さすがに考えすぎだよなーと肩をすくめて、でもそう考えればここまでの疲労もそう捨てたもんじゃないかと当初の考えを改めながら、ヒカルはあかりに呼びかけた。
「なあ、あかり」
「んー? なあに?」
「オレ、結婚してよかった」
 あかりは箸を持ったまま目を丸くし、次いで軽く吹き出した。
「どうしたの? そんなにお腹空いてたの?」
 お茶漬けだけで足りるのかと、あかりが立ち上がってキッチンに行こうとするのを慌てて止めながら、ヒカルは再度苦笑をこぼした。
 まったくこの幼なじみは、色々よく気がつくくせに、時々鈍い。
 でもそれくらいでちょうどいいとも思う。そのくらいの方が居心地がいいし、我が家は居心地がいいのが一番だ。
「あーうまかった」
「おいしかった」
 二人できれいに茶碗を空にして、二人で同時に手を合わせる。
「ごちそうさまでした」


 今日からずっと、君が我が家。

 

終わり

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