早春の香
あかりが囲碁部を作ったら指導に行ってやる。 中学の卒業式で交わした、そんな約束が果たされたのは夏だった。 こんなことなら午前中に済ませてしまうのだった。 あごからしたたり落ちる汗にぼやきがもれた。 「ヒカル、ほら急いで。バスが来ちゃうよ」 数歩先を行くあかりが振り向いて急かしてきた。その額に前髪が張り付いているところを見ると、あかりも汗だくになっているらしい。家からここまで、全力とはいかないまでも、駆け足できたのだから当然だ。 早起きが嫌だからと遅い時間に約束したのに、結局ヒカルは寝坊したのだった。あかりが迎えに来たと母親にたたき起こされるまで、ヒカルはベッドの上に転がっていた。 支度自体に時間はかからないのだが、ヒカルがベッドから出るまでぐずぐずしていたのが良くなかった。あかりが迎えに来た時点では残っていた余裕が、二人で家を出る頃にはほとんどなくなっていた。それで次のバスは逃せないと、二人して駆け足をするはめになったのだった。 「ああー! バス来ちゃったー!!」 あかりの上げた声に視線を後ろに流すと、バスの姿が見えた。この距離と速度なら、すぐに追いつかれ、追い越されてしまう。視線を前に戻すと、バス停までまだ少し距離があった。 「くそっ」 舌打ちをして、ヒカルは駆け足の速度を上げた。そうしてあかりとすれ違いざまにその手を掴んだ。 「急ぐぞ!」 間を置かず返ってきた返事を確認すると、ヒカルはあかりを掴んでいる手に力をこめ、さらにスピードを上げた。 「なんとか間に合ったな」 荒い息を整えながら隣を見ると、あかりの息はもっとあがっていた。ぜいぜいと肩を大きく上下させて、ヒカルに答えるどころではないらしい。 こんなに小さかったか? 物心ついたときから一緒に過ごしていた幼なじみは、ヒカルより背が高かったはずだ。あかりがヒカルを見下ろして叱ったり呆れたりして、ヒカルはあかりを見上げて文句を言って。それが普通だったのに、いったいいつから自分の方が大きくなっていたのだろうか。 慌てて手を放した。 「悪い」 バスはそれなりに混んでいた。乗客同士の体が触れあうようなことはないが、熱気がこもっている。走ったので自分の体も熱い。汗も止まらない。 それなのに、春の匂いがした。 |