早春の香

 あかりが囲碁部を作ったら指導に行ってやる。

 中学の卒業式で交わした、そんな約束が果たされたのは夏だった。
 暑い日だった。
 照りつける日差しが容赦なく肌を焼き、アスファルトから音を立てて熱気が立ち上るのが見えた。

 こんなことなら午前中に済ませてしまうのだった。

 あごからしたたり落ちる汗にぼやきがもれた。
 休みの日にまで早起きをしたくはないからと、指導の時間を午後に指定した、怠惰な自分に自分で腹を立てながら、ヒカルは手の甲で汗をぬぐった。

「ヒカル、ほら急いで。バスが来ちゃうよ」

 数歩先を行くあかりが振り向いて急かしてきた。その額に前髪が張り付いているところを見ると、あかりも汗だくになっているらしい。家からここまで、全力とはいかないまでも、駆け足できたのだから当然だ。

 早起きが嫌だからと遅い時間に約束したのに、結局ヒカルは寝坊したのだった。あかりが迎えに来たと母親にたたき起こされるまで、ヒカルはベッドの上に転がっていた。
 何時に約束しておこうがヒカルは寝坊するだろうのは、あかりの頭の中に織り込み済みだったらしい。あかりは随分時間に余裕を見て迎えに来た。ヒカルが寝ぼけ顔で降りていくと、こんなに暑いのによくお布団の中にいられるねと、あかりは怒りもせずに笑っていた。
 それどころか、疲れているなら今日の約束は取りやめてもいいと、ヒカルを気遣いさえした。
 約束は約束だと、そこまできてようやくヒカルの意識は覚醒し、慌てて支度をして飛び出してきたのだった。

 支度自体に時間はかからないのだが、ヒカルがベッドから出るまでぐずぐずしていたのが良くなかった。あかりが迎えに来た時点では残っていた余裕が、二人で家を出る頃にはほとんどなくなっていた。それで次のバスは逃せないと、二人して駆け足をするはめになったのだった。

「ああー! バス来ちゃったー!!」

 あかりの上げた声に視線を後ろに流すと、バスの姿が見えた。この距離と速度なら、すぐに追いつかれ、追い越されてしまう。視線を前に戻すと、バス停までまだ少し距離があった。

「くそっ」

 舌打ちをして、ヒカルは駆け足の速度を上げた。そうしてあかりとすれ違いざまにその手を掴んだ。

「急ぐぞ!」
「うん」

 間を置かず返ってきた返事を確認すると、ヒカルはあかりを掴んでいる手に力をこめ、さらにスピードを上げた。
 バス停への到着は、バスよりほんの少し遅れてしまった。あかりの手を引いたまま、開いたドアから飛び乗る。ステップを勢いよく駆け上がり、もう一方の手でてすりをつかむ。さすがに息があがってしまった。

「なんとか間に合ったな」

 荒い息を整えながら隣を見ると、あかりの息はもっとあがっていた。ぜいぜいと肩を大きく上下させて、ヒカルに答えるどころではないらしい。
 そんなに息をきらせるほど、全速で走っただろうか。
 首をかしげかけて、ヒカルは唐突に気づいた。あかりの頭が自分より随分と下にあることに。

 こんなに小さかったか?

 物心ついたときから一緒に過ごしていた幼なじみは、ヒカルより背が高かったはずだ。あかりがヒカルを見下ろして叱ったり呆れたりして、ヒカルはあかりを見上げて文句を言って。それが普通だったのに、いったいいつから自分の方が大きくなっていたのだろうか。
 そういえば、さっきからつないでいる手も小さい。指も細い。ヒカルが力を入れて握ったら折れてしまいそうだ。走っているときは意識しなかったが、思いっきり握ったような気もする。あかりは何も言わないけれど、ひょっとしたら痛かったかもしれない。

 慌てて手を放した。

「悪い」
 居たたまれなくなってあかりから視線を外した。人の頭越しに外の景色を見ながら、短く謝った。
「大丈夫。間に合ってよかったね」
 あかりはまだ少し苦しそうだった。それでも笑っているのが声でわかった。

 バスはそれなりに混んでいた。乗客同士の体が触れあうようなことはないが、熱気がこもっている。走ったので自分の体も熱い。汗も止まらない。

 それなのに、春の匂いがした。

 

終わり

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