「ただいまー」
家の奥に声をかけながら玄関の上がりかまちに腰を下ろすと、ヒカルは靴に手をかけた。
革靴の履き心地には正直なところまだ慣れない。特に簡単に履けないのが気に入らない。スニーカーなら無造作に足を突っ込んでも、あるいはかかとを履きつぶしたとしても全く問題ないのだが、革靴だとそうはいかない。するっと足が入ってもよさそうな形をしているのに、なかなかどうしてこれが意外に頑固で、未だにヒカルは玄関先で何十秒かの無駄な時間を必要としている。
それに比べれば脱ぐ方はまだましだ。変なところを踏まないように気をつけさえすればいいのだから。ただし立ったまま脱ぐという技はまだ習得していないので、座る場所がないとやはりうまくいかないのだが。
今日も力を込めて革靴を足から引きはがしていると、スリッパの軽い足音がして、優しい笑顔が姿を見せた。
「おかえり、ヒカル」
愛しい妻の笑顔を見れば、一日の疲れも革靴のわずらわしさもふっとぶというものだ。ヒカルもそれまでのしかめ面を笑顔に変えて、もう一度ただいまを言い直そうとした。
の、だが。
「うわ、ヒカル。今日もくさーい」
出迎えてくれた笑顔がヒカル以上のしかめ面に変わる方が早かった。
ヒカルは靴を脱ぐや否や二回目のただいまもそこそこに、愛妻の手によって洗面所に放り込まれてしまった。
「タオルと着替えは出してあるからね」
扉越しに聞こえた声におーうと力なく答えて、ヒカルはシャワーの蛇口をひねった。
勢いよく飛び出してきたお湯に頭を突っ込んで、そのまましばらく髪をその流れにさらす。
風呂にたたきこまれたらまず髪を洗う。それが最近のヒカルの習慣だった。あかりが顔をしかめた原因は、主に服とそして髪につく。とにかくまずはそれを落としてしまいたい。
ポンプを何回も押してヒカルの短い髪には多すぎるほど大量のシャンプーを出し、乱暴に髪をかき回す。たちまち泡が浴室の壁や鏡に盛大に飛んだ。これは後で風呂から上がる前に、きちんとシャワーで洗い流している。そうしないとカビが生えやすくなるでしょという妻からのお達しにヒカルは逆らわずに従っている。
さし当たって充分すぎるほど泡立てたシャンプーをシャワーで洗い流していると、ヒカルの腹の虫が小さく鳴いた。
帰宅したヒカルにあかりが顔をしかめたら、食事よりも何よりも風呂が先。ヒカルの事情は考慮してもらえない。どれだけヒカルが腹を減らしていても、まずはお風呂。
一日働き空腹を抱えて戻った夫に対して、これは理不尽にも思える習慣だが、あかりがそれをすすめる理由はヒカルにもわかっているし、納得もしているから腹はたたない。けれどその音があまりにも情けなかったので、ヒカルはあーあと苦い笑みをこぼした。
オレのせいじゃないんだけどな。
ちっとも静かにならない腹の虫をなだめながら、シャンプーを終えたヒカルは次に体を洗い始めた。
碁の世界の喫煙率が、世間一般と比べて高いのか低いのか。それは他の世界を知らないヒカルにはわからないことだったが、とりあえずヒカルの回りにはヘビースモーカーが結構多い。正式な対局中には灰皿など置かれないが、休憩場所には必ずあるし、碁会所ともなれば年中煙で真っ白だ。仲間内での勉強会も、子供の頃には無かった缶ビールや灰皿が並ぶようになっている。
ヒカル自身は吸わなくとも、一日中そういう環境の中にいれば、必然的に煙草の匂いが体にしみつく。あかりはそれを嫌うのだ。
腹が減っているので長湯はしない。ざぶんと形だけ湯船につかってヒカルは風呂からあがり、手早く体を拭いてあかりが用意してくれた部屋着に着替えた。その間もずっと腹の虫が空腹をしきりに訴えてきたので、我が事ながらさすがに呆れ、ヒカルは肩をすくめた。
ヒカルの腹の虫には少々酷ともいえる厳格なルール。けれど、正真正銘の新婚ほやほやのころはこうではなかった。ヒカルがどれほど煙草の匂いをさせていても、あかりはそれほど嫌な顔をしなかった。今日もすごいねと眉をしかめたとしても、腹を空かせたヒカルのためにおいしい夕飯を先に出してくれていた。
それが今現在このような扱いをうけるようになったのは、別にヒカルに対するあかりの愛情が薄れたからではない。のろけと言われようとヒカルはそう信じている。ルールが変更された理由は、単に、より繊細な愛情を注がなければならない相手があかりにできたからに過ぎない。
そちらの方が夫婦関係において、より深刻といえる状況なのではないだろうか?
首を傾げてしまいそうな論理だが、ヒカル自身はそのことに対して全く不満を感じていない。なぜならヒカルもあかりと同じくらい、その相手に愛情を注いでいたからだ。
「あがったぞ」
「はーい。お疲れ様」
ダイニングテーブルに座ると、すぐに温かい料理と冷たいビールが出てきた。
「いただきまーす」
冷えたビールを一気に飲み干す。空きっ腹に良くないのかもしれないが、風呂上がりの体に染み渡るこの感覚は格別だ。
「はー。うまい」
そうしてすぐに箸をとり、目の前のごちそうをかき込む。今夜のおかずはヒカルの大好物のハンバーグだった。口の中でほぐれるうまみが今日の疲れを癒してくれる。ヒカルはすぐに二口目を放り込んだ。
「もう。ゆっくり食べないと体に悪いよ」
ヒカルの早食いをたしなめながら、あかりもヒカルの向かいの席に着いた。あかりはヒカルの帰りが夜中にならない限り、自分も夕飯を食べずに待ってくれている。
いつものことなのだが、ふとあることが心配になってヒカルは口の動きを止めた。そうしてハンバーグを口に入れたまま、ヒカルはあかりに声をかけた。
「なあ、夕飯先に食ってていいぞ。遅くなると体に悪いだろ?」
ちゃんと飲み込んでからしゃべってよとヒカルの行儀の悪さに苦笑しながらも、あかりはヒカルの提案には首を振った。
「大丈夫だよ、これくらいなら。まだそんなに遅くないもん」
そうしてあかりは自分のお腹に手をやって、そうっとノックをするように軽くお腹を叩くと、そこにいる二人の大事な宝物に話しかけた。
「パパと一緒に食べる方がおいしいもんね」
その光景にヒカルは口をもぐもぐと動かして、ゆっくりハンバーグを飲み込んだ。嬉しいような照れくさいような、むずがゆい気持ちが湧いてきて、すぐに言葉が出てこなかったのだ。
いつもの倍以上の時間をかけて口の中を空にしてから、ヒカルは短く、そっかとだけ言った。
あかりもうんと短く答えた。
そうして二人で食事を再開する。
いや、三人か、とヒカルは思い直した。
まだ姿は見られなくても、確かに今ここに、二人の大切な宝物が一緒にいるのだ。二人のより繊細な愛情と気遣いを必要とする存在が。
どれほどへとへとに疲れていても、どれほど腹が減っていたとしても、食事よりもお風呂が先。
子供の頃や独身の時、そして新婚ほやほやの頃にはいらなかった気遣い。煙草の匂いを取るまでヒカルはあかりとその子には近づけない。けれど、ヒカルはそれをわずらわしいとはちっとも思わなかった。
家族で囲む風呂上がりの夕飯は、今日も文句のつけようのないほど旨く、ヒカルは満足だった。
だけど、とヒカルの頭をよぎるものがある。
まだその姿を見てないうちからこれなのだ。実際に生まれてこの手に抱けるようになったときには、どれほどの気遣いが必要になるのだろう。
オレの回りでは禁煙だ。
無茶が通じる連中にだけでもそう言うべきだろうか。
通じない相手がいることを考えれば、空気清浄機なども必要になるかもしれない。
どのくらい必要なんだろう。やはり各部屋ごとに一台だろうか。
無茶の通じる相手と必要な空気清浄機の台数とを頭の中で数え上げながら、ヒカルはハンバーグを平らげた。