ようやくその大きさが苦にならなくなってきたランドセルが、ヒカルの背中で大きな音をたてた。
　正確にいうとその音は今上がったのではなく、ヒカルが校門を出てから、ここまでずっとなり続けている。
　音の原因はヒカルの乱暴な足取り。
　足取りが乱暴なのは、ヒカルが不機嫌だから。
　そしてヒカルの不機嫌の理由は、今日クラスメートと交わした会話にあった。

「おまえ、藤崎さんのことまだ名前で呼んでるのか？」

　その言葉に始まった一連の会話で、ヒカルは非常に不愉快な思いをさせられたのだ。
　物心がつく前からの幼ななじみである藤崎あかりを、ヒカルは昔からの習慣通り「あかり」と呼び捨てにしていた。そのことがさもおかしく恥ずかしいことであるかのように、クラスメートの男子連中によってたかってからかわれたのだ。
「くそっ」
　もやもやとした気分を持て余し、道端の小石を蹴飛ばしながら大またで足を進める。
　一体何がおかしいのか、ヒカルにはさっぱりわからない。あいつらだってついこの間までは、気軽に女の子の名前を呼んでいたはずだ。幼稚園の時などは全員○○ちゃん、○○くん、と名前で呼び合っていたではないか。
　それがどういうわけか、小学校にあがると誰ともなしに、異性を、特に男子が女子を呼ぶときは、苗字にさんづけというのがあたり前だという風潮が、流行り出してしまった。
　ヒカルはもともと回りのことを気にする方ではない。だから他の男子が女子をどう呼ぼうと、別にかまわなかったのだが、自分にまでそれが押し付けられるとなるとなると話は別だ。
　ヒカルはいったん立ち止まると、ランドセルを背負いなおした。だいぶ体に合ってきたとはいえ、まだまだ自分の背中のほうがランドセルよりも小さいので、ここまでの足取りでその位置がずれてきたのが気持ちが悪かったのだ。
　跳びはねるようにしてランドセルの位置を整えながらも、ヒカルの顔は渋い。

「ガキっぽい」

　とまで言われてしまったのだ。そうそう機嫌が直るはずもない。
　何度跳びはねてもランドセルが会心の位置に来ないので、ヒカルはやけくそ気味に歩き出した。

　じゃあ、なんて呼べばいいというのだろう。

　他の男子のように「藤崎さん」？
　呼び捨てはそのままに「藤崎」？
　名前をそのまま呼び捨てをやめて「あかりちゃん」、あるいは「あかりさん」？

　どれも絶対に無理だ。

　いっそう頬を膨らませて歩いていると、ヒカルよりもずっと軽やかなランドセルの音が聞こえてきた。
　続いて聞こえてきた声にヒカルは足を止めて振り返った。
「ヒカル、ヒカル、待って」
　小走りに駆けてきたのは、今ヒカルが呼び名を考えていた幼なじみだった。
「なんだよ」
　あかりが追いついてきたので歩みを再開しながら短く尋ねると、あかりはぱっと顔を輝かせて言った。
「あのね、今日、お母さんがおやつにバナナケーキ焼いてくれるの。ヒカルも食べるでしょ？」
　だから一緒に帰ろうというお誘いに、ヒカルは一も二もなくうなずいた。あかりのお母さんの焼くバナナケーキはヒカルの好物だった。もっとも、ヒカルは甘いもの全般に目が無く、バナナケーキだけが特別だというわけでは実はないのだが。
「じゃ、早く帰ろ！」
　特別なのはバナナケーキだけではないが、バナナケーキが特別なのもまた確かなこと。重ねてのあかりのお誘いにもヒカルは機嫌良くうなずき、さらには挑戦状をたたき付けた。
「おう、競争な！」
「勝った方が大きいケーキを取れるんだからね」
　ヒカルの提案は受け入れられ、あかりからのさらなる挑戦が返ってきたが、ヒカルは自信たっぷりにそれを受けた。
「いいぜ。あかり、負けたからって文句言うなよ」
「負けて文句言うのはいつもヒカルでしょ？」
　この指摘に対してヒカルは答えなかった。答える代わりにヒカルは急に立ち止まると、そのまましばらく黙り込んでしまった。
「ヒカル？」
　怒らせてしまったのかとあかりが怖々ヒカルの顔をのぞき込んできたが、ヒカルはそれにもすぐには答えなかった。
「ヒカル？」
　あかりが再度ヒカルの名を呼ぶと、ヒカルはややうつむいていた顔をいきなりあげてあかりの顔を見ると、口の両端を持ち上げてにっと笑った。
「競争だろ？」
「ええ！？」
　あかりは唐突なヒカルの変化についていけないようだったが、ヒカルはかまわず号令をかけた。
「よーいどん！」
　しかも走り出したのが号令より早い。
「ちょっと、ヒカル！　ずるいよ！」
　あかりが慌てて走ってくる気配を感じながら、ヒカルはもう一度口の端を持ち上げた。

　やっぱり「あかり」だよな。

　待ってよ、ずるいよ、という抗議の声を背中に受けて、ヒカルはどんどん足を速めた。背中のランドセルは盛大に跳びはねたが、もう気にはならなかった。

　自分たちは「ヒカル」と「あかり」。
　それでいいのだと、ヒカルは心からうなずいた。