沈んだ言葉

 にぎやかな明かりと音に誘われてヒカルは足を止めた。石畳の先、赤い鳥居の向こうに楽しげな空気が満ちている。
 木々にわたされたコードから下がる電球や立ち並ぶ出店、行き交う浴衣姿の子供達などが目に入って、ヒカルの顔がゆるんだ。
「そっか、今日は祭りか」
 つぶやいてヒカルは鳥居の中に足を向けた。
 ヒカルはまだプロとしてはかけだしだが、結構忙しくしていた。手合いや指導碁、イベントの参加といった仕事の他にも、時間があれば誰かしらと碁の勉強に励んでいる。明けても暮れても碁尽くしの毎日を送っていると、季節の移り変わりにもうとくなる。まして碁にかかわりのない行事ともなれば。
 ヒカルは鳥居近くの木にもたれて行き交う人を眺めた。
 今日も和谷のところで散々打ってきた帰りだ。それなりの時間にはなっているが夏の夜は明るい。もう少し帰りが遅くなったとしても問題はない。ここは祭りの会場のほんの入り口にすぎなかったが、それでも充分祭りの空気は吸える。楽しげな雰囲気にヒカルも目を細めた。
 祭りの出店というのは、そう変わるものではないらしい。最後にこうした場所を訪れてからずいぶん経っているような気がするが、記憶の中のそれと目の前の光景はほとんど変わらない。
 と、ヒカルの目の前を小さな影が横切って、転んだ。
 あわてて駆け寄って抱き起こす。
「大丈夫か?」
 黄色いTシャツと黒い半ズボンの小さな男の子は、立たせてやるとその頭の位置がヒカルの腰より低かった。
 しゃがみこんで服やひざについた砂をはらってやるが、男の子は真一文字に口を引き結んだまま、答えようとはしない。
 泣くの、我慢してんだな。
 真っ赤な顔を見てヒカルの口元がゆるむ。
 転んだときも手にしたわたがしの袋を手放そうとしなかったので、かなり強くひざをうってしまったらしく、ヒカルが見てもかなり痛そうだ。きっと少しでも力をゆるめたら、涙がこぼれてしまうのだ。
 がんばって耐えている姿がいじらしいやらかわいらしいやらで、ヒカルがさてなんと声をかけてやろうかと考えたその時、小さな女の子が駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
 赤い金魚が泳ぎまわる黄色い浴衣姿の女の子は、男の子のひざを見て目を丸くした。
「転んだの? 痛い?」
 するとさっきまで固く口を閉じていた男の子は背すじをのばし、大きく胸をはった。
「全然。たいしたことねーよ」
 涙は一粒もこぼれない。
「でも、痛そうだよ」
「痛くないってば」
 なおも心配そうな女の子に大丈夫だと繰り返す。
 そんな光景にヒカルの顔にやさしい笑みが浮かんだ。
 さっきまで、あんなに泣きそうだったくせになあ。
 小さな二人は手をつないで祭りの中へ戻っていった。途中で振り向き、ヒカルに頭を下げてお礼を言うのも忘れずに。
 二つの背中に手を振って、ヒカルは近い昔を思い出す。
 自分もあんな風に祭りを楽しむときはいつも二人だった。親に連れて来てもらっていた頃も、親がついてこなくなってからも、出店をめぐるヒカルは一人ではなかった。たこやきに焼きとうもろこしにりんごあめにわたがしと、食べ物を買いあさるヒカルをいさめる声と一緒だった。
 ただそれもヒカルが碁以外のことにうとくなるまでのこと。中学も卒業した今は、その声を聞かない日の方が多い。
 腕の時計に目をやると、知らぬ間に結構時間が経っていたらしい。そういえば腹も減ってきた。
 香ばしい匂いがあちこちで手招きをしているが、一人では食べあるく気にはなれない。夕飯の待つ家に帰ろうと木から背をはなし、体を回したその目の前に知った顔があった。
「ヒカル?」
 不思議そうに自分を見上げる浴衣姿の人影に、ヒカルもその名前を呼んだ。
「あかり」
 ふらりと立ち寄ったヒカルとは違い、あかりはちゃんと祭りを楽しみに来たらしい。白地に花を散らした浴衣に身を包み、下駄履きで手にはきんちゃくがある。完璧な祭りスタイルだ。
「どうしたの? 誰かと待ち合わせ?」
「いや、通りすがり」
 答えながらヒカルはかすかな違和感に首をひねった。目の前のあかりに何かが違うと感じてしまう。浴衣も帯もきんちゃくもヒカルの知っているものなのだが。
「ヒカル?」
 ヒカルがあまりにまじまじと見つめるので、あかりは居心地が悪そうに体をひいた。
「ああ、そっか」
 やっと違和感の正体に気づいてヒカルは手をうった。
 気づいてしまえばなんのことはない。あかりの髪型がいつもと違うのだ。普段は肩にたらしている髪を後ろで一つにまとめて、ヒカルには何をどうしてあるのかわからないが、上にあげてとめてある。首回りがすっきりとよく見えるので、いつもと違う感じがしたのだ。
 髪型一つでずいぶんと変わるものだとヒカルは感心した。女の子達がおしゃれに必死になる気持ちがちょっとわかったような気がする。見慣れない髪型は、しかしおかしなものではなかった。むしろよく似合っている。
「その……」
「あかりー」
 ヒカルが口を開きかけたのと同時に出店の奥からあかりを呼ぶ声がした。振り返ると、手を振っている浴衣姿の女の子がいた。
「今行くね!」
 あかりが口元に手をあてて大きな声で答える。
「友達?」
「うん、待ち合わせ。今日はクラスのみんなでお祭に行こうってことになってて」
 そわそわと、あかりはヒカルの顔とクラスメートとの間で視線を動かす。
「じゃあ、俺は帰るわ」
「え、うん。またね」
 何が気になるのか、落ち着かない様子であかりはクラスメートの方へ駆けていった。
 浴衣に下駄履きなのに転ぶんじゃないのかと、その背中を見送ったヒカルの視線の先であかりはクラスメートと合流した。よく見ればさっき手を振っていた女の子の他にも、何人か集まっている。浴衣姿の女の子もいるし、洋服の子もいる。それに、男の子も混ざっていた。
 男の子の一人が駆けてきたあかりに向かって何かを言った。言われたあかりの頬が赤く染まったのを見てヒカルはきびすをかえした。
 さっきまで祭り囃子とともに浮かれていた気分がなぜか重い。
「その髪似合うな」
 さっき言いそびれた言葉がのどの奥に深く沈んでヒカルの胸をふさぐ。
 鳥居をくぐり祭りの外に出る。ふと目に入った小石を、ヒカルは思いっきり蹴り上げた。

終わり

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