「おかあさん、あれかって」
 あかりの小さな指が示す先にはピンクや赤を基調とした特設売場。たくさんのハートマークがあしらわれたそれは、この時期どこへ行っても見かけるもの。
「ねえ、かって」
 なおもせがむあかりに、彼女の母は首をかしげた。どうにも商品の数が多すぎて、娘の指がどれをさしているのかわからないのだ。
「あのね、これがほしいの」
 動かない母にいらだったのか、あかりは懸命に背伸びをして目当てのものを手にすると両手でそれを高くかかげてみせた。
「ねえ、いいでしょ?」
 かがんで娘の差し出すものを見ると、ピンク色の箱の中で小さなくまが三つ並んでいた。
 それは、値段も量もささかなものだったので、母は娘のかわいいわがままをかなえてあげることにした。
 はい、と差し出された包みとあかりの顔とを、ヒカルはきょとんとして何度か見比べた。
「あのね、おかあさんが『ヒカルくんにもあげなさい』って」
 そう言うあかりのもう片方の手に同じ包みが握られているのを見ると、ヒカルはようやくそれを受け取った。そしてバリバリと盛大に音をたてて小さなハートを散らしたピンク色の包装紙を破くと、中から出てきたものに歓声をあげた。
「チョコレートだ」
 そうしてまたバリバリと箱を開け、くまを一つ取り出すと頭からがぶりと勢いよく食いついた。
 それを見てあかりは少し顔をしかめた。痛そうだなと思ったのだ。そしてヒカルよりずっとひかえめに開いた箱から取り出したくまを眺める。
 どうしても頭からかぶりつく気にはなれなくて足の方をちょっぴりかじる。口の中に甘さが広がってそれはとてもおいしかったのだけれど、足の先のかけたくまは頭のないヒカルのそれよりも、かえって痛々しく見えた。
 あかりはしばらく手の中のくまとにらめっこを続けたが、思いきって丸ごと口に放りこんだ。少しずつ口の中で溶けていくチョコレートはやっぱりとてもおいしくて、あかりは思わずにっこりした。
「ごちそうさま」
 元気な声のした方を見ると、ヒカルが満足げに手の中の箱をつぶしていた。あかりがためらっている間にヒカルの方は、くまを三匹とも頭からおいしくいただいていたのだった。


「あったっけ? そんなこと」
 ヒカルは一瞬眉をひそめると、記憶をたどるように視線を空にただよわせた。
「あったんだよ、そんなこと」
 語り終えたあかりが笑いながら答える。
 わたしからの初めてのバレンタインプレゼント、忘れちゃうなんてひどいなーなんて、歌うように続けるとヒカルの苦笑が返ってきた。
「んなこと言って、いつの話だよ、それ」
「さあて、いつでしょう」
 二人してくすくす笑いながら手をつないで歩く。今日は久しぶりに二人の休みが合ったので、やりたいことはたくさんあった。
 小学校じゃないよなあと、がんばって思い出そうとしてくれているらしいヒカルのつぶやきが頭の上から降ってきて、あかりはもう一度くすりと笑った。
 ヒカルが覚えていないのも無理はない。あれはまだ、二人が幼稚園にも通っていない頃のこと。あかりだって本当はまったく覚えていなかったのだ。この前お母さんが話してくれて初めて思い出した、というより初めて知った話だった。
 この前の休み。ヒカルはあかりの家を訪ねた。あかりではなく、あかりの両親に会いに。
 「娘さんを僕にください」なんてお決まりのあれを、それこそ赤ちゃんの頃からつきあいのある相手にするのは、相当きまりの悪いものだったと思うけれど、ヒカルはきちんとこなしてくれた。そのヒカルがお父さんと飲み明かして帰った後で、台所に二人で立って洗物を片付けながらお母さんがしてくれた話だった。
「あなた達の縁は、だからお母さんがとりもってあげたのよ」
 最後にそう、胸をはって。

終わり

ヒカルの碁部屋に戻る