棋士というのがこれほど家を空ける仕事だとは、なってみるまで思いもよらなかった。
地方のイベントにかりだされたりすることもあるし、指導碁の依頼が遠方から来ることもある。その他諸々。基本的には東京で活動するとはいえ、家を留守にすることがずいぶん多いように思える。
だから、悪いな、とは思うのだ。
その間、あかりを一人で家に残してしまうことは。
どんなときでも笑顔で送り出してくれるけど。仕事なんだからしょうがないよと、気にすることはないと、いつもそう言ってくれるけど。さびしい思いをさせてしまっていると思うから。
さびしいと思っていてくれなかったら、オレってみじめだよな…。
ふう、とため息をついて、土産に買った地方の名産が入った紙袋を持ち直し、ともすれば人波の中にまぎれてしまいそうになる、やや先を行く和谷の茶色い頭を探した。
三日ぶりの東京の街はすでに暗くなり始めている。すぐに帰るつもりだったのだが、一緒に戻ってきた和谷の、夕飯につきあえという誘いを断れず、家とは違う方向に歩くヒカルの足取りは重い。
あかりが待っているから帰るなんて、言えねえしなあ。
言えば、どんなからかいを受けるかわからない。一つ首を振って、お勧めだとかの店へと向かう和谷について歩く。
昨日電話で話したときに、夕飯までには帰れると思うとそう言ってしまったから、きっとあかりは待っている。自分が帰るまで、夕飯も食べずに待っている、のに。
帰れなくなったと電話をいれたいのだが、そんな行動もからかわれるに違いないと思うと、かけるタイミングを見つけるのが難しい。ポケットの中に手を入れて、携帯をにぎったり放したりを繰り返す。
和谷のいうお勧めの店へと続く道は、ずいぶんと人通りが多かった。誰も急ぎ足に感じるのは、時刻的にみな夕飯を求めているからだろうか。どこかへ食べに出てきたのか、それとも家に食べに帰るのか。買いすぎた土産の分広くなった横幅が、和谷より歩みを遅らせる。荷物を人にぶつけないように気をつかい、何度目かのすみませんが口からこぼれた後、ヒカルは大きなため息とともに肩を落とした。
「やっぱ、買いすぎたよなあ……」
一人にさせてしまっていると思うと、土産くらいちゃんと渡してやりたくて、いつもあれもこれもと買ってしまう。土産なんかでうめあわせができるとは思っていないけど。
だから一緒に暮らそうって言ったでしょうという、母親の言葉が唐突に思い出される。
確かにそうすれば、今ほどさびしい思いをあかりにさせることはないのだろうが、母親の言葉にうなずくことはできなかった。
あかりの前で両親にどんな顔をすればいいというのか。
何より、両親の前であかりにどんな顔をすればいいというのか。
「進藤、なにトロトロしてんだよ。さっさと来いよ」
「ああ」
気が付けば、ずいぶんと和谷との間が空いてしまっていた。答えて、先を行く和谷を追った視線の先で人波がゆれる。その中に、知った顔を見つけた気がしてヒカルが目を凝らしたのと、声をかけられたのとは同時だった。
「進藤じゃない」
名を呼びながら歩み寄ってきたのは、中学のときの同級生だった。手をひいて囲碁部の部室に引っ張っていったときからほとんど変わらない。ヒカル自身は結局その後ほとんど付き合いもなかったのだが、あかりはずいぶんと世話になっていたようだ。最後に会ったのは、確か、結婚式のとき、だ。
「かね、こ…?」
確認するように名を呼ぶと、中学のときから貫禄のあったその女性は、仁王立ちになって腰に両手をあて、非難するような視線を返してきた。
「あんた、こんなところでなにしてんの。さっさと帰らなくていいわけ?」
視線と同じくらい非難の色が含まれた口調。久しぶり、とか、元気そうね、というような普通の挨拶をすっとばしたいきなりのお説教に、さすがにヒカルもカチンときた。大きく息を吸い込んで乱暴に口を開く。
「なんでお前に…」
そんなこと言われなくちゃならないんだよ、と続くはずだった抗議の声は、だが、もっと大きな非難の声の前に消えた。
「身重の奥さん、一人にしちゃ駄目じゃない」
「え」
言われた内容がすぐに飲み込めず、間の抜けた声がヒカルの口から漏れた。大きく見開いたその目に、人波をかきわけて向かってくる和谷が映る。なかなか来ないヒカルに業をにやしたのだろう。なにかあったのかという近づいてきているはずの和谷の声が、ずいぶんと遠くに聞こえた。
「なんだ、あんた知らなかったの?」
そんなヒカルの様子にあきれたのか、仁王立ちはそのままに、同級生だった彼女は口調からも視線からも非難の色を消した。
この前囲碁部で集まったときに聞いたんだけど、とさらに続く話が耳を素通りしていくにつれ、さっき言われた言葉の意味が、ヒカルの頭の中で少しずつはっきりとした形をとる。
「どうした。知り合いか?」
戻ってきた和谷がヒカルの肩をたたいた。その小さな振動が、固まっていたヒカルの体を動かした。
肩に置かれた手を弾き飛ばす勢いで体を反転させる。
「和谷、悪い。やっぱオレ帰る!」
「進藤!?」
二つの口から同時に出た言葉を背に、全速力で家を目指す。手に下げた紙袋の中で、土産が派手な音を立てるがかまわずに走る。
昨日も、その前も、その前も、電話で話したのに、何も言わなかった。いつもと変わった様子も感じられなかったのに。
「あかり!」
勢いよく玄関のドアを開ける。
「おかえり、走って帰ってきたの?」
ぜいぜいと息を乱して飛び込んできたヒカルに驚きながらも、あかりはいつもの笑顔で迎えてくれた。その手が宅配便で届いたらしい大きなダンボールをかかえているのに気付いてあわてて取り上げる。
「いい、オレが運ぶから! おまえは静かにしてろ!」
「う、うん?」
大声に驚いたのだろう、目を白黒させてあかりはうなずいた。
「じゃあ、これ運ぶね」
さっき思わず放り出した土産やらかばんやらを拾っているあかりを見ながら、ヒカルは一つ深呼吸をした。
「お腹すいてるでしょ。ご飯できてるよ」
「あかり」
先に台所へ向かったあかりを呼び止める。
「ん?」
振り向いたあかりを見て、もう一度深呼吸をする。そうしてゆっくりと口を開いた。
「なんで、言わなかったんだよ」
「え?」
なんのことだかわからないと、また目を白黒させているあかりに少しいらだって、言葉を継ぐ。
「金子から、聞いた」
いつもより低い口調で、一語一語区切って話す。金子の名前と、胸より少し下の位置に向いたヒカルの視線で気付いたらしく、あかりの顔が赤らんだ。
「金子さんに会ったの?」
「偶然な。それより、なんでオレより先にあいつらに話すんだよ」
電話で言えばいいじゃねえか。
語尾を吐き捨てるように、そう言い足す。
くやしくて、自分の口がとがっているのがわかる。子供っぽいと自分でも思うけれど、頬までふくらんでしまいそうだ。
「……もん」
「あ?」
真っ赤になってうつむいたあかりの声は小さくて聞き取れない。きつい調子で聞き返すと、あかりはさらに顔を赤くして顔をあげた。
「直接言いたかったんだもん」
さっきの数倍は大きな声で、そう言うと、今度はあかりが口をとがらせて、赤い顔のままそっぽをむいた。
「電話じゃなくて、ちゃんと顔を見て言いたかったの!」
あかりはそっぽを向いたままそう続けた。最後の、「の」をことさらに強く言うのは、すねているときと、照れているときのあかりのくせだ。
赤い顔をして、そっぽをむいて、ほおをふくらませて。
そんなあかりの様子に、悔しさはどこかに吹き飛んだ。代わりにこみあげてくるのは、嬉しさと、愛しさと少しの後悔。ヒカルは軽く唇をかんだ。
なにやってんだ、オレ。
一人にしてすまないと、そう思っていたのは、ほんの数分前のことなのに。
手にしたダンボールを足元に置いて、あかりに近づく。赤い顔のままちらりと自分の方を見たあかりに、少し笑う。それからヒカルは、できるだけ優しい力であかりを腕の中に閉じ込めた。
「悪かったな、大声出して」
くやしさから子供っぽいやきもちを焼いたことが恥ずかしくて、あかりの顔は見れない。あかりの顔を自分の胸に押し付けて、もう一つ謝罪の言葉をつむぐ。
「ごめん、な」
腕の中であかりがふるふると首をふった。
「ううん。私のほうこそ、ごめんね」
その言葉に、ヒカルはさらに嬉しくなり、さらに後悔した。
悪いのはこっちのほうなのに、それをこうして許してくれるあかりに甘えてばかりの自分。
いつまでも、こんなふうじゃだめだよな。
もうすぐ、家族が増えるのだから。
だから、お前が謝ることは無いとそう言おうとした瞬間に、ヒカルの腹の虫が鳴いた。
「ぶっ」
同時に吹き出し、顔を見合わせて笑う。
「ご飯に、しようか」
「そうだな。腹減ったぜ」
あかりを放し、ヒカルはさっき置いたダンボールを持ち上げた。見ると、送り主は自分の母親だった。
「なんだこれ、母さんからか?」
「うん、ベビー用品だって」
答えたあかりは苦笑している。
「ずいぶん気が早いな…」
苦笑を返し、台所へ行くあかりの後を追いながら、ふとあることが気になってあかりの背中に声をかける。
「なあ、男かな、女かな」
弾んだ声でのヒカルのそんな問いに、あかりはもう一度苦笑した。
「ヒカルも気が早いよ。もう少ししないとわからないんだって」
「そっか」
楽しみだね、と笑うあかりにヒカルも笑顔を返す。そうして、今度はくやしい思いをしなくてもいいようにちゃんと言っておくことにした。
「どっちかわかったら、オレに一番最初に教えろよ」