おつかいの帰りに少し回り道をしたのは、別に探していたからなんかじゃないけれど。
前を行く見慣れた、いつのまにか自分よりも高くなってしまった後姿を見つけて、あかりの足は自然と速くなる。
「ヒカル」
そうして、かけよっていく足音に気付いたのか、足をとめて振り返った幼なじみに声をかけた。
「おう、あかり。久しぶり」
久しぶり。幼なじみで、家が近くて、通う学校も同じ。それなのにそんなあいさつをかわすことにあかりの胸は少し痛む。しかし屈託なく笑うヒカルに、自然とあかりの表情も明るいものになった。
「うん、久しぶりだね。がんばってる?」
「あたりまえだろ。何、おまえ買い物の帰り?」
あかりの手に下げられたスーパーの袋に視線を落として、ヒカルが問う。
「うん。お母さんが、夕飯の材料買い忘れたからって」
「ふーん」
そういって歩き出したヒカルの手に下げられたものに、今度はあかりが気付いた。
「どうしたの? それ。色紙?」
ヒカルが持っていそうなものとは思えなくてそう尋ねると、ヒカルはちょっと複雑な顔をした。
「ん、ああ、倉田さんにもらったんだ」
「倉田さん?」
どこの倉田さんだろうかと首をかしげたあかりに色紙を手渡すと、ヒカルは続けて説明した。
「倉田六段だよ。プロの。さっき偶然会って、一色碁で対局してもらって」
「一色碁?」
「白石だけで打ったんだ。オレの白石が黒ってことで」
「へえ、そんなのがあるんだ」
「オレも初めて知った。それでオレが負けたら、くれた」
「ふーん?」
ヒカルの話は説明になっているようでちっともなっていない。あかりはもう一度首をかしげた。それでどうして色紙をもらうことになるんだろう。首をかしげながら改めて色紙を見ると、ヒカルより、はるかに整った字で「倉」とあった。
「これって、サイン?」
プロのサインなど、あかりはもちろん見るのが初めてで、ついしげしげと見入ってしまう。
「ああ」
「倉だけ?」
「公式手合いでオレが勝ったら、続きを書いてくれるってさ」
「え、じゃあがんばらないとね」
「まあな」
勢い込んだあかりに、ヒカルはずいぶんと気の無い様子で言葉を返した。ひょうしぬけしたあかりはせっかくもらったのにと肩を落としかけたが、あることに思い当たって顔をあげた。
「ヒカルは?」
「え?」
「サイン、したことあるの?」
片手にスーパーの袋を下げ、片手で色紙を胸の辺りでかかえながら身をのりだすようにして尋ねる。
ヒカルだってプロなのは知っている。わかっている。でもヒカルがサインだなんて似合わない。
と、思う。サインに応じるヒカルの姿を想像してあかりはおもわずふるふると頭をふった。
「あかり?」
そんな自分を怪訝そうにのぞきこんでくるヒカルの目を反対にのぞきこむようにしてもう一度問いを繰り返す。
「ヒカルも、プロなんだし、サインくださいって言われたりするの?」
ずいぶんと真剣なその様子にヒカルは面食らって何度かまばたきをし、そして盛大に顔をしかめた。
「あるわけないだろ。オレはまだプロになったばかりなんだぞ」
「そっか、ないんだ。そうだよね」
思わずほっとため息をつく。なぜだかずいぶんと安心した気分になって、あかりは口元をほころばせる。
すると、それを見たヒカルのほうは不機嫌そうに口をとがらせた。
「おまえなー、バカにしてるだろ」
「そ、そんなことないよ」
あわてて否定しても、ヒカルはすっかりすねてしまったらしい。ふくれっつらで、どうせおれは字が汚いよとかなんとかつぶやいている。
そうしているとずいぶんとヒカルが幼く見えて、あかりはふきだしそうになるのをこらえるのに苦労した。
「でもなー、見てろよ」
と、少し大きめの声でヒカルが宣言する。
「そのうち、オレのサインがほしいって人が山ほど並ぶようになるんだからな」
「うん、そうだね」
あかりもにっこり笑ってうなずく。
そう、そのうちほんとうに、すごい棋士先生になってしまうのだろうけど。サイン色紙も嫌になるほど書くようになるのだろうけど。
今はまだ、サインなんて見向きもされない新人棋士。
まだしばらくはそのままで。
ふと、あることを思いついた。
絶対だぞといいながら少し前を行くヒカルに小走りで追いつく。深くおじぎをするように身をかがめ、横からヒカルの顔を見上げるようにして、そしてふだんより少し声のトーンを上げて、あかりは思い付きを実行に移した。
「進藤先生、サインください」
「は?」
「進藤先生、お願いできますか?」
突然のあかりのその行動に最初はとまどっていたヒカルも、重ねて先生と呼ばれてのってきた。 胸をはり、いつもより低い声で応じる。
「よろしい、さしあげましょう」
「ありがとうございます」
ドンと胸をたたくヒカルに、深々と頭をさげるあかり。次の瞬間には二人ともこらえきれずにふきだしてしまった。
「それにしてもおまえな、サインくれって言うからには、何か書くものをいっしょに出すんじゃないのか、ふつう」
「いいじゃない。ヒカルが何かもってるでしょ」
笑いすぎて目元ににじんだ涙を指でぬぐいながらあかりは答え、ヒカルが背中に背負ったかばんから、何か出すように促した。
「本当に書くのかよ」
「いいからほら」
あきれた声をだしながらも、ヒカルは結局あかりにおしきられるような形で、かばんからペンと、多分もう必要ないと思われる何かのプリントを取り出す。
「こんなのでいいのか」
「充分ですよ、先生」
弾んだ声で早く書けとせかすあかりを横目で見ながら、ヒカルは一気に名前を書き上げた。
「ほら」
半ば乱暴なほどにそっけなくヒカルが差し出したサインを、あかりは両手で丁寧に受け取った。
「ありがとうございます。進藤先生」
そうして、無造作に書かれたヒカルの名前をじっと見つめる。小さい頃から見慣れた、おせじにも上手とは言えないヒカルの字。変わらないその字をみていると、うれしくて、あかりは口元がゆるむのを抑えられなかった。
そんなあかりの様子に、ヒカルも照れくさそうに笑う。
「オレの初サインなんだからな。大事にしろよ」
「うん、ありがと。大事にするね」
並んで歩く足取りも軽く、二人はそれぞれの家に向かった。
倉田六段の色紙をヒカルに返すのを忘れたことにあかりが気付いたのは、自分の部屋に帰ってからのこと。一瞬、しまったとあせったが、まあいいかと思い直す。ヒカルのサインと並べて飾り、それを眺めてにっこりと笑う。どうせヒカルが持っていてもなくしてしまうに違いない。そのうちヒカルが倉田六段に勝ったら、返しに行こう。
そのときは、ヒカルにも改めて色紙にサインをしてもらおうかと、あかりはそう遠くはないであろう未来を思った。